おかげさまで今日もご馳走です。

天気がいいので庭の草木に水をあげていたら、隣の畑からアキさん(仮名)が声をかけてくれた。(前回の話:感謝して受け取る。

「大根食べるかえ?」と聞かれたので「食べます!」と即答すると、「好きなだけ持っていきよ」と笑う。
「こんなのもらっていいのかな…」と思うような立派な大根を一本抜いて「ありがとうございました」と声をかけると、「それだけでいいんかえ?ほうれん草も持っていきよ」と言ってくれた。
じゃあ…とちゃっかりほうれん草を探すが、どれがほうれん草かわからない。
畑の中をうろうろとしていると、畑の奥で一作業終えたアキさんが来てくれて、可愛いほうれん草をざくざく刈って渡してくれた。


アキさんはいろいろな野菜を育てている。
大根、にんじん、ほうれん草、白菜、キャベツ、水菜、高菜…。
春に向けて、マメ科の何かが可愛い白い花をつけている。
まだ芽が出たばかりの大根も見せてもらった。
隣の区画には、食べ盛りの大根がにょきにょき生えている。
こんなに小さい芽がこんなにも大きく育つのだなあと思うと、手に持った大根もより愛らしく感じる。

畑を眺めながら「これは長ねぎですか?」と聞くと「これは玉ねぎ」とアキさん。
玉ねぎって、こんなにもねぎなのか(?)と、自分の無知ぶりに驚く。
他の区画を指して「こっちは長ねぎですか?」と聞くと、それはにんにくだった。
どうしよう。全然わからない。
これまでずっと、野菜というのはスーパーや直売所で売っているものだったなあと改めて思う。
新潟に帰った頃から少しずつ農業を営む友人も増えてきて、随分知った気になっていたけれども、
実際に自分の口に入るものの半分も、私はその姿を知らないのではないかと思うほどだ。

畑の中を歩く間にも「大根もう一本持っていきよ」「水菜食べるかえ」と、あっという間に両腕がいっぱいになる。
「一回軒下に置いてきたら?」と言われたのだが「まだ持てます!」とちゃっかり白菜とキャベツもいただいて帰った。


アキさんの野菜は、本当に美味しい。
豚汁を作ろうと大根をいちょう切りにする端からついつまんでしまう。
しゃくしゃくと心地良い歯ごたえがあって、みずみずしい。
生の大根がこんなに甘いものだとは知らなかった。
(りんごか梨をイメージしてもらうとだいぶ近いと思う。)

アキさんいわく、「本当は好きなときに持っていってくれていいけど、あんたのことだからそれはできんやろ。だから、私がいるときにその分もたっぷり持っていき」とのこと。
つい遠慮してしまうところまで見透かされているのだなあと思うと、なんだかこそばゆい。
「ごちそうさまです」と畑から出ていく私に「おごっそ(ご馳走)お食べ」といつも声をかけてくれる。
おかげさまで今日もご馳走です。

シャスタから種田に戻ってきたら、世界が変わっていた。

カリフォルニア北部にそびえ立つシャスタ山の麓、マウントシャスタシティに滞在すること1か月。
何度かブログを更新しようと思ったものの何をどう書いたらわからないまま一月が経ち、そのまま国東に戻ってきてしまった。友人たちに会い「どうだった?」と聞かれても「なんだかすごかった」としか伝えられず、正直まったく消化しきれていない。それでも種田で数日過ごして少し落ち着いてきて、不意に自分の中で何かが完全に変わってしまったことに気がついた。


【アナスタシアとの出会い】

シャスタに行く前に、長崎県佐世保市で行われた無農薬・無肥料の農業実習に参加した(参考記事:佐世保に土づくりの農業実習に行った。)。この時に薦められた本が「アナスタシア」。

ロシア人の著者が、シベリアのタイガにたったひとりで暮らす女性アナスタシアと出会い、タイガの森の中で数日をともに過ごした記録だそうだ。(「だそうだ」というのは、この本の内容は私たちが普段認識している世界の姿とは遥かにかけ離れていて、これを真実だと思うのもフィクションだと思うのも読者に委ねられていることによる。)

農業実習で、「害虫にどう対応するか」という質問に対し「害虫というものがそもそも存在しない」という話になった。なぜか。虫は本来地球において分解者であり、弱ってしまった個体を分解し浄化する、「ナウシカ」でいう腐海の役割を担っているからだ。このとき、講師は「全部『アナスタシア』に書いてある」と言った。
(一見健全な野菜も、画一化された種から生まれ同じサイズに育てられている。人間に置き換えて考えてみたらこれは明らかに不自然な状態で、いい土で自由にのびのびと育った丈夫な野菜には虫はつきにくいというデータも見せてもらった。)(これは虫の役割についての話であり、慣行栽培を否定するものではない。慣行栽培は充分な収穫を比較的安定して得ることができ、効率的に各地に新鮮な野菜を届けることのできるシステムだと私は思っている。)

アナスタシアは、森の中で家も持たずに動物たちと暮らしている。といっても、狼少女のような暮らしではない。他者の意識とつながることができ、都市部での暮らしや最先端の技術も知っているし、過去についても知ることができる。そして未来を描き、実現する力を持っている。アナスタシアは「愛」について語り、植物の持つ偉大な力について話す。そして、物事の枝葉ではなく、本質に目を向けることを説く。


【畑を裸足で歩く】

Amazonで買ったはいいもののまだ目を通していなかったこの本を読みながら、私はアメリカに向かった。そこで何があったかについては書き尽くせないので結果だけ書くと、私は今までずっと長靴で入っていた自分の畑に裸足で入るようになった。(これはアナスタシアが薦めている。)

まだ日の昇らない畑はひんやりと肌寒くて、空には月が浮かんでいる。一歩進むたび、足先で朝露が弾けるのがわかる。地面はほのあたたかくて、土も、草も、足の裏にあたる感触はとても柔らかい。こうして裸足で入ってみると、土や苗や、雑草や虫でさえも、自分と同じものだという感覚が生まれる。
すべての苗に声をかけながら歩いて、新しい花が開いていたら立ち止まる。雑草は抜いて、マルチとして苗の根元に横たえる。そうして畑でしばらく時間を過ごしていると、太陽が昇ってくる。太陽の光が当たると、空気がどんどんあたたまってくるのが伝わる。

この一体化する感覚はとても気持ちが良くて、今朝は雨が降っていたので一時サンダルで畑に行ったものの、なんだか物足りなくてもう一度裸足で行ってしまったほど。
IMG_2591早朝の月。
IMG_2592朝露を乗せた里芋の葉が、風に揺れる。
IMG_2604庭の苔。まるでじゅうたんのようにふかふか。


今思えば、小さい頃からあまり土に触れたことのない私にとって、土は汚いもので、虫は怖いものだった。野菜を育てるのは面白そうだと思ってはじめたけれど、その時点では私と畑は全く異質の存在だった。
大地と、宇宙と、すべての生きとし生けるものはつながっている。頭ではまだよくわかっていないけれど、感覚がそう言っている。それはきっととても素敵なことで、だから私は足裏に大地を感じるたびにこんなにも幸せを感じるのだ。

種田に引っ越す前に住んでいた家は庭も畑もなく、とてもこんな変化は体験できなかっただろう。そう思うと、シャスタには行くべきタイミングで行けたのだし、種田にはやはり住むべくして住んでいるのではないか。
自分の中で、何かひとつ腑に落ちたように感じている。

畑の土づくりを始めた。

前回の記事:佐世保に土づくりの農業実習に行った。

無肥料無農薬で野菜をつくる農業研修に参加してから一週間。
友人たちが手伝いに来てくれたので、ついに土を作ってみた。
半年後に完成という、壮大な計画である。


【ふかふかで肥料のいらない土の作り方】

大量の雑草を準備する。
雑草は、できたらスズメノカタビラやセイタカアワダチソウなどの単子葉類がいいそうだ。ハコベやカラスノエンドウなどの双子葉類は柔らかく分解しやすいため、様々な菌が来てしまう。単子葉類は固いので、いちばん増やしたい糸状菌が効率よく集まってくれるらしい。

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次に、土が見えなくなる程度の量の雑草を土の上に被せ、さらに土、雑草、土、雑草と乗せていく。

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最後に黒マルチをかけて押さえ、周囲に溝を掘って(周囲の土を乗せておくと、この時点で自動的に溝ができる。)水の流れる道を作り、あとは半年待つだけだ。

黒マルチをかけるのは、なるべく土に雨がかからないようにするため。溝も、傾斜をつける等して水が溜まらないように気をつける。大量の水が入って土がべしゃべしゃになると、中の空気が抜けて土がふかふかにならないそうだ。


【使ったもの】

・長靴
・軍手(コーティングされているものだとなおよい)
・草刈り鎌(草刈り機があればなおよい)
・くわ(荒れ地だったのでざっと耕した)
・シャベル(土をかけるのに大活躍)


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手を入れる前は草だらけだった。
畑どころか土いじりすらほとんどしたことのない私には、途方もない作業のように感じられていたが、実際にはじめてみると、しゃべっている間に楽しく土づくりを終えることができた。続きは半年後。カンパーニュ3個分の小麦を植える予定だ。

農業に興味があって、こんな遠いところまで足を運んでくれる友人がいる、ということが今日のいちばんのポイントのような気がする。興味関心の方向性が似ている人間関係を築くことが、田舎暮らしの極意かもしれない。