私の留守中に、たけのこが届けられていた。

家に帰ってきたら、台所のオーブンの取っ手にたけのこの水煮の入ったビニール袋が結びかけてあった。
もちろん私ではない。
つまり、誰かが、私の留守に、勝手口(開いている)から入り、そこにかけたということだ。


【くれるものはありがたくいただく】

田舎暮らしの良い点として、食べものをもらえることがよく挙がる。
実際、たくさんいただく。
たけのこ、しいたけ、レタス、つわぶき、ひいてはブリの切り身や魚の味噌漬けまでいただいている。そして、美味しい。本当にありがたい。

しかし、私は一人暮らしだ。そんなに食べられない。
手際よく調理して正しく保存すればいいのだろうが、残念ながら私は料理が得意とはいえない。正直なところ、腐らせてしまうこともたまにある。

腐らせてしまうくらいなら、最初から遠慮するべきか。
比較的近所に住んでいる、移住暦16年の大先輩は「持ってきてくれるものは断るな」と言う。
そもそも、なぜ食べものを分けてくれるのか。もちろん優しさもあるだろうが、何よりも食べものが余って困っているという現状があるからだ。野菜にしろ魚にしろ、採れる量は人間には選べない。釣れるときはたくさん釣れてしまうし、野菜は皆同じ時期に実をつけてしまう。とはいえ、食べものを捨てるのは誰だって忍びない。その結果、こちらもお裾分けをいただけるのだ。
自分の都合のいいときだけもらおうというのは筋が通らない、とは大先輩の言葉。「ありがとうございます」といただいて、たまには違う形で返す。そうしてコミュニケーションが生まれ、循環が生まれる。


【自分の留守に他人が家に入ることを許容できるかどうか】

我が家の表玄関の鍵はとっくの昔に紛失していて、現時点では存在しない。ここではきっと使う必要がなかったのだろう。大家さんは「出かけるときは勝手口から出て鍵をかければいい」と言うが、それはなんとなく負けている気がして、今のところはほぼ常に開けてある。知らない車は必ず誰かが見ている小さな集落だ。まあ大丈夫だろうと思っている。

以前の私なら、鍵を開けておくことはきっとできなかった。テリトリー意識が強くて秘密主義だから、自分のスペースに無断で他人が入ることはおろか、「入るかもしれない」状況であることも許せなかっただろう。
年を重ねたことによる私自身の変化も大きいが、やはりこの土地で1年暮らしたことが何より大きい。
大分県がそうなのか、国見町がそうなのかはわからないが、このへんの人は会えば話しかけてくれるが、ぐいぐいと押してはこない。適度な距離感があって、それが心地よいのだ。(地元の友人は「それは向こうの人もあなたの様子を見てるんだよ」と言う。)いい距離感を保ってくれるであろう人たちだから、警戒する必要性を感じない。むしろ、こちらが閉ざしてしまったら向こうからも閉ざされてしまうのではないかという危惧もある。
私は全面的に委ね受け容れるから、できたら異物である私のことも受け容れてほしい。そんな気持ちで、私はここで生活しているのだと思う。


最近、田舎暮らしのいい面、美しい面ばかりが強調されている気がするが、「田舎」と一口にまとめるのは危険だ。どこにどうやって住むかによって全く異なる生活になる。国東暮らしの一発目が種田だったら、あまりのカルチャーショックで心が折れていたかもしれない。住宅地で1年暮らしてこの土地の空気感に触れたからこそ、今の心地よさがあるのだ。

たけのこを持ってきてくれたのは、きっとお隣さんだろう。
今度パンを焼いたら持っていこう。
さて、先日作ったたけのこごはんもまだ冷蔵庫にあるのだが、このたけのこをどう調理しようか。