廊下の端で死んでいたダンゴムシに春の息吹を感じる。

【昆虫注意!虫に関する描写があります。】

先週のこと。
朝、廊下の端に丸くて小さい、しかしほこりや砂にしては大きい何かが落ちていた。近づいてみると、ダンゴムシだった。もはや丸まっておらず、白っぽい腹部を上にして死んでいる。
それを見た瞬間、「ああ、もう春だな!」と思った。

厳しい冬が終わり、春が来る。
(国東の冬は意外と寒いです。愛知から遊びに来た子が「愛知のほうがあたたかい…」と言ってました。冬季においでの際にはお気をつけて!)

ダンゴムシの屍を前に、私の心は喜びに満ち溢れた。
そして、2秒後に我に返った。
「わーい、ダンゴムシが死んでるー」で喜べるって、どうなのそれ。

おもむろに屍を片付けながら、種田での2年間を振り返った。

私の住む家は、あちこちに微妙な隙間があるため(玄関の下からは草も入ってきます。)家の中で様々な虫に遭遇する。G、クモ、バッタ、カマキリ、カメムシ、ホタル(!)。虫というには微妙だが、ナメクジもヤモリもいる。ダンゴムシは、なぜか生きているとことはあまり見ないのだけれども、片付けても片付けても、廊下の隅でよく死んでいる。
猫がなんとなくぎらぎらしているなあ、と感じるときは大抵虫と格闘(というか一方的になぶっていて、いつもジュラシックパークのラプトルを思い出してしまう。)していて、朝になるとかつては生命だったパーツだけがぽつんと落ちていることもしばしば。昨年は、何度もムカデを見たために「ああ、またか」くらいのテンションで、長いトング(これまで100均で買った商品のうちで、いちばん良い買い物だったと声を大にして言いたい。)でつまんで捨てられるようになった。
(参考記事:田舎暮らしで驚いたこと。〜虫と共存する。
(参考記事:ついにムカデが出没した。

きっと、以前は虫との距離が遠くて、私にとって異質なものだったから怖いと感じていたのだ。わからないものは怖い。それは普通のことだ。しかし、虫は虫なりに生きていて、私も私なりに生きている。ただそれだけのことだと、今は認識しているのではないか。

しかし、冬になるとすべての虫が姿を見せなくなる。
庭の雑草も伸びなくなるし、鳥も鳴かなくなる。
畑によく入り込んできていた鹿の声や足音も聞こえない。
あらゆる生命が、動きを止める。

決して、生命が途切れたわけではない。
種田から伊美に向かう道では、今も鹿に遭遇するし、鳥もたくさんいる。しかし、春から秋のように、家にいて気配を感じることがない。

虫のいない生活はそれは快適で、そういう意味では冬が終わってしまうことに心残りもあるのだけれど、それでも、ぎゅっと固く閉じていた季節のほころびに自然と喜びを感じてしまうのは、私自身もひとつの生命だからなのかもしれない…と思いながら、それにしてもダンゴムシに季節のほころびを感じるという自分の感性の変化には驚きを禁じ得ない。

そして、ただ暮らしているだけで自分自身が変化していくという、この種田という場所が本当に好きだなあと思ったのでした。

kamenosの読書会。

日出町にある素敵なカフェ、kamenosで読書会をした。

事の発端は、kamenosのオーナーであるじゅんこさんが私のブログを気に入ってくれたことによる。
kamenosを訪れたときに「ちひろちゃんの文章、いいよね。やっぱり本をたくさん読んでるの?」と聞かれ、私はたしか「本は好きなんですけど、読んでますと言えるほど読めてはいないんです」と答えたと思うのだが、じゅんこさんはそのまま「私はずっと本にあこがれててここで読書会をやりたかったんだけど、ちひろちゃんやらない?」と振ってくれて(そんなじゅんこさんが大好きです。)「ぜひ!」と話がまとまった。

「読書会ってなに?」とときどき聞かれるのだけれど、基本的には本が好きな人たちが集まって語り合う場だと思っている。
いちばん多いのは、それぞれのお気に入りの本を持ち寄って紹介する読書会だろう。好きな本の傾向が似ている人との出会いも面白いし、普段なかなか読まないような本と出会う面白さもある。(ビジネス書や漫画など、ある程度ジャンルを限定した会もある。)
私がはじめて参加した読書会は、1冊の本をひとりひとりが読んだ上で集まって、それぞれの感想を話し合うタイプの読書会だった。自分が読み流していた部分を深く読み込んでくる人がいたり、同じ文章でも私とは違う受け取り方をしている人がいたり、1冊の本をひとりきりで読むよりもっとずっと何倍も楽しめて本当に楽しかった。
とはいえ、「1冊の本を読みあうのはちょっとハードルが高いね」ということになり、1回目はお気に入りの本を持ち合う会にしようと決まった。
ゆっくり話ができるように人数は少なめにしたいね。
話題をより共有できるように、なにかテーマがほしいね。
話はとんとんと進んで、じゅんこさんが提案してくれた「どこかに猫の出てくる本」が第1回目のテーマになった。

当日は、ふたりの女性が来てくれた。
「どこかに猫が出てくる本」どころか、タイトルや表紙から完全に猫の本ばかり。しかも、ひとりは小説、もうひとりは絵本、そして私はエッセイと、本としてのジャンルは全く違う。こういうテーマの設定の仕方、やっぱりいいなあ。いろいろな本が集まりつつも共通項があっておもしろいなあと、本が並んだ時点ですでに私は相当楽しんでいたのだけれど、当然のように3人とも猫が好きなので、猫の話でそれはそれは盛り上がった。

飼い猫との出会い。日々の暮らし。そして、別れ。

私自身はまだ猫との別れを経験したことがないのだけれど、ちょうど「自分が猫を残して死ぬ」という状況について考えをめぐらせていたところだった。「いや、さすがに猫のほうが先でしょう」と思われるかもしれないが、人生何があるかわからない。急な病気だってあるし、事故だっていつ起こるかわからない。そもそもは「亡くなった飼い主の動画を携帯で見る猫」の動画を見てしまったのがきっかけで(猫がじっと画面を見つめた後、携帯にそっと頭を寄せて目を閉じるという静かな動画なのだけれども、静かなだけになんとも悲壮感が漂う)、「私が死んだら猫たちのことはどうしよう」と考え始めたら止まらなくなっていた。(ちょっと遠いけれど、新潟に住む妹にお願いしようと決めました。)

「人間は一生、猫にすら勝てない」とは、読書会に途中から参加してくださった猫と本を愛する男性の名言だ。私の手帳にメモが残されていたのだが、どんな文脈で出た言葉だったのかは覚えていない。しかし、あれこれと思い煩ってあがくのは人間で、猫はすべてを、死すらも受け入れているように見えると話してくれた。(「人間は弱いからこそ知恵をつけたのかもしれないですね」という話も出た。それとも知恵があるからこそ弱いのだろうか。)
たくさんの猫を見てきた人たちの言葉には、ほんの何気ないひとことにもずっしりと重みがあって、生きること、そして死ぬことについて、直接語り合ったわけではないけれども私なりに感じるところがあったのだろう。読書会が終わってみると、猫との別れを思い悩まなくなっていた。

じゅんこさんは読書会について、「人との出会いや気づきがあって、それを日常に持ち帰ることができるような場にしたい」と話してくれていた。少なくとも私にとっては、じゅんこさんが思い描いたような時間になっていたなあと思う。

次回のテーマは、「コーヒーの香りを感じる本」の予定です。たのしみ。

 

 


せっかくなので、持ってきていただいた本をご紹介。

1冊目は「旅猫リポート」。

ほんの概要を聞いただけで涙腺がゆるみきってしまった、恐ろしくも美しい本。(厳密には私は読んでいないのだけれども、出てくる人や猫の思いや風景がとてもやさしく美しいのだろうなと思いながらお話を聞きました。)猫目線の、猫と人とのロードムービー的な小説だそう。裏表紙の概要でだいたいの展開がわかってしまうのですが、なんとなく心地良い風が吹いていそうで、読んでみたくなりました。(私の覚悟が決まったら読みます。)

そして、可愛い絵本たち。

とにかく絵がかわいくて、眺めているだけでにこにこしてしまう「猫のプシュケ」(ただし読むと切ない)。私自身が長子だからか、とても直視できないほど心に刺さる「ねえ だっこして」。ここまで泣いてばかりで、猫の絵本って切ない話ばっかりか!(100万回生きた猫とか)とめそめそしていた私を癒してくれた「うきわねこ」(ものすごくいい笑顔でおかかおにぎりを食べるこねこ、えびおがかわいすぎました!)。私は普段あまり絵本は読まないのですが、やっぱりいい絵本はいくつになって読んでもおもしろい。心揺さぶられる。

私が持って行ったのは金井美恵子氏のエッセイ。

私の文章は、多分にこの方の影響を受けています。内容は毒舌辛口エッセイですが、著者は17年間共に過ごした飼い猫を亡くしたばかりで、猫の気配がすごい。たんたんとした文章の中にふいに滲む、猫との時間。いつもタイトルを「猫の一生」と間違ってしまうのだけれど(本当は「猫の一年」)、文中でも「編集者に『猫の一生』と間違えられた」というくだりがあって、やっぱり…と思う。

醤油ラーメンを食べに行って、カタルシスを得る。

国東に来ていちばん困っているのは、ラーメン屋が少ないことだ。
しかも、九州で「ラーメン」といえば「とんこつラーメン」とほぼ同義。
以前、大分出身の方と話をしていて「醤油ラーメンをわざわざ食べる意味がわからない。うどんでよくない?」と言われたのは忘れられない。ラーメンといえばこってりとした食べ物であり、味噌ラーメンはあるが(北海道系味噌ラーメンのローカルチェーン「味噌乃家」さんはどんどん店舗を増やしている模様)醤油ラーメンはほぼない。それが九州におけるラーメン事情なのだと私は理解している。

新潟県といえば米だけれど、実は、人口1人当たりラーメン店舗数が全国1位というラーメン県である。(唐澤頼充監修「新潟のおきて〜ニイガタを楽しむための50のおきて」より)
その話をすると「新潟のラーメンってどんな感じ?」と聞かれるのだが、札幌ラーメンとか東京ラーメンのような明快なイメージはない。しかし、前掲の「新潟のおきて」によると、新潟五大ラーメンは、透き通る魚介スープの中華そば、しょうがの効いた長岡系醤油ラーメン、寒くてもなかなか冷めない背脂系ラーメン、極太麺を絡める濃厚味噌ラーメン、そして三条カレーラーメンだそうで(※諸説あり)、とんこつ以外は結構いろいろなラーメンが揃っている。
(新潟では、とんこつラーメンは一風堂しか行ったことがないです。)

今はずいぶんと慣れたけれども、2年前は完全にラーメンに飢えていて、広島の尾道に行く用事があったときに「尾道ラーメンといえば醤油!ラーメンを食べずして国東へは帰れぬ!!!」と心に誓い、同行のみなさまを巻き込んでラーメンをいそいそと食べに行ったのだけれど、夢にまで見るほど恋い焦がれた醤油ラーメンを一口食べたら、なんと麺がちぢれておらずストレート麺で「なんか違う!?!?!?」と困惑してしまったことがあった。
尾道ラーメンが美味しくないわけでは決してない。(というか美味しかったです!ごちそうさまでした!)
言ってみれば、プレーンの丸パンだと思ってかじりついたら中に餡が入っていたような衝撃だったのだ。たとえ餡パンが大好きでも、そしてその餡パンが恐ろしく美味しい餡パンだったとしても、「思ってたのと違った!!!」という衝撃はそれがプレーンだと思い込んでいればいるほどに大きい。

そんなこんなで、最近ではドラッグコスモス国東店でたまーーに買う「日清のラーメン屋さん(旭川しょうゆ味)」を心の糧に生きていたのだけれど、大分市内にラーメン屋ができたと「シティ情報おおいた」で見かけた。その名も「嫁の中華そば」
大分市か、遠いなあ。でもいつか行ってみたいなあ。
そう思いつつもすっかり忘れていたある日、国東日和。の岡野さん(参考記事:「ぶっちゃけ地域活性化とかどうでもいい」が信条のプロジェクト「国東日和。」がはじまりました。)と所用で大分市に行ったときに、不意に思い出した。
「『嫁の中華そば』っていうお店があるらしいんですよ」
食事時ではなかったし、思い出して口にしただけだったのだが、岡野さんは用事を終えた後に「行ってみようか」と寄ってくれた。

「嫁の中華そば」は、県庁の裏手にある。(すぐ向かいが駐車場で便利。40分200円)
閉店間際に滑り込むと、壁がピンク色でカウンターの向こうには女性のみ。入りやすい雰囲気の店舗だ。
券売機で「嫁の推しメン」(普通よりもチャーシューが多め)を頼むと、すぐに透き通ったスープにシンプルなトッピングの中華そばが出てきた。一口食べて「ああ、これだ…!」と感極まってしまい、自分が新潟から来て醤油ラーメンをずっと恋しく思っていたと店員さんについ語ってしまった。すると「わかりますー!こっちの醤油ラーメンは違うんですよ!」と応えてくれるものだから、「麺がちぢれてなくて!」と訴えると、オーナーさんが「そうなんです!!!」とうなずいた。「だから、麺は喜多方(福島県。蔵と喜多方ラーメンの都)から取り寄せてるんです!」と。
その瞬間、3年分の鬱屈とした思いが浄化されたように感じた。
そして思った。私は、この「なんか違う」感に同じ熱量で共感してほしかったのだ。

大分の友人に伝わらないのはもちろんなのだけれど、新潟の友人にも「麺が絶妙に違う」という感覚が伝わらず、「わかるようなわからないような」という反応が多かった。そこに、この熱意とこだわりである。これはファンにならざるを得ない。

あっという間にラーメンを平らげてしまい、「また来ます!」とお礼を伝えて帰った。美味しいラーメンを食べた以上の、もっと深い満足感があった。

岡野さんも「おいしい」と言っていたし、食べログの口コミによるとお昼時には行列ができるらしい。
大分で醤油ラーメンブームが起きるかもしれない。(起きてくれたらいいなあ。)