猫は鏡である。

ひさしぶりにやられた。

パソコンに向かっていると、りゅう(茶トラ♀1歳)が「遊ぼう」とにゃあにゃあ声をかけてきた。「ちょっと待って。あと3件だけ返信するから、もうちょっとだけ待ってて」と後回しにしていたら、ソファの上でなんだかもそもそしている。よく見たら、出しっぱなしにしていたニットの上にいたしていた。

 
抗議の粗相である。
 

おーーーーーーーーーーーい。
え、ちょっと、
おーーーーーーーーーーーい。
やめてくださいよそういうの。
ていうか、そのニット高かったんですけど。
(出しっぱなしだったけど。)

しばし呆然とするもなんとか気を取り直して、トイレはここではないということをこんこんと(無駄だと思いつつ)言い聞かせながら、りゅうをトイレに放り込んだ。りゅうはりゅうで、にゃむにゃむ何かを訴えている。

最近いくつかプロジェクトが並行して動いていて、慌ただしく過ごしている。たしかに、昨日も1日留守にしていた。しかし、以前にも粗相事件があったので、りゅうを寂しがらせないように気をつけているつもりだ。昨日も帰ってきてから「遊んで」コールに応えて鬼ごっこにも付き合った。
それなのに、なぜだ。いったい何がご不満だというんですか。
(基本的に猫に対しては「さん」付けで敬語です。)

トイレから脱出し、何食わぬ顔で横を通り過ぎようとするりゅうを捕獲して、膝の上に乗せた。
すっかりあたたかくなったからか、最近はあまりくっついてこない。
どうせすぐ降りるだろうと半分嫌がらせのつもりだったのに(半分は私のもふもふ欲を満たすため)、りゅうは香箱座りで落ち着き出してしまった。

 
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縁側に、私と猫。

猫を膝に乗せているので、動けない。
スマホも何も持っていない。

手持ち無沙汰なので、りゅうをなでることにした。りゅうは一度起き上がって私の膝上を掘り、丁寧に座り心地を整えてからまた手足をしまって座った。

こんなことしてる場合じゃないんだけどなあ。

そう思いながらも、他にすることもないので、りゅうをなでる。
外は雨。少し開いた窓から、ひんやりとした空気が入ってくる。
膝上では猫がごろごろごろごろ鳴いている。

そういえば最近何かひとつに集中することがなかったな、とふと思った。
こっちの文章を書いたら、そっちの資料を印刷してチェックして、別件の連絡をする。ごはんを食べながら本を読んで、お風呂に入りながら本を読んで、車の移動中にはオーディオブック。
りゅうと遊ぶのも、ごはんを作る合間やお湯を沸かしてコーヒーを淹れる途中だった。

りゅうをなでることに意識を向ける。

ふと、海辺のカフェで友達とただただのんびりしたり、縁側でお茶をいただいたりした記憶が蘇った。思い出しただけで、なんだかうふふと心があたたかくなる時間。
そういえば、打ち合わせや取材じゃなくて、ただ会うためだけに人と会う時間がすっかり減っているんじゃないか…。

そう気づいた瞬間、近くで鳥が鳴いて、りゅうは膝から降りてすたすたと行ってしまった。

 
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効率的であることとか、メソッドとか、フレームワークとか、そんなことに捕われすぎていたのかもしれない。そんなことを思った。
私は基本的に自信がないのだ。だから、枠組みを求める。きちんとしていなければいけないし、完璧でなければいけない。実際にはきちんともしていないし完璧でもないのだけれど、だめな自分を受け入れきれてない。だから、足りていないと思う部分を埋めようとしてしまう。
ここ数年でだいぶ手放してきたつもりだったけれども、慌ただしさで見えなくなっていたようだ。

なにか大切なことを忘れてるんじゃないの?
一言も発することなく、自分自身を省みる時間をくれた猫。
ねえ、あなたもしかして神さまなんじゃないの?なんてことをちょっと考えたけれど、粗相のにおいで我に返った。

(余談だが、ニットは断捨離することに決めた。)

読みやすい文章の書き方をハリウッドに学ぶ。

最近、文章を褒めていただくことが増えた。
しかし、私の文章が読みやすいのだとしたら、それは私に才能があるからではない。ただのスキルだ。つまり、誰にでも書ける。

ブログを書くときは、大学時代に叩き込まれたアメリカ式の論文の書き方、「国東探訪」(参考:国東探訪について)を作るときは、ハリウッド式の脚本術をベースにしている。
特に「国東探訪」は、読んでいて楽しいものにしたいので、物語的な起承転結を意識している。

私の教科書はこちら。(現在は売っていないようですが、似たような本がいろいろ出ています。たぶん基本はどれも同じ。)

合理的なアメリカらしく、ハリウッドでは脚本の書き方もマニュアル化されているらしい。これを知っていると、文章に限らず、人前でまとまった内容を話さなければいけないときにも使える。また、映画を鑑賞するときに、ストーリー構成という視点から見るのも楽しい。

ここでは、いろいろと便利なハリウッド式の脚本術を、大まかに3つのステップに分けてご紹介したい。

1.素材を集める

文章を書く作業は、実際に書き始める前からすでに始まっている。

人の興味を引く素材をどれだけ集められるかは、面白い文章の大切な構成要素のひとつだ。どれだけドラマティックな構成にしても、書いてある内容がものすごく普通(もしくはありがち)であれば、ドラマティックにはならない。とはいえ、変わったネタやエピソードである必要はない。「自分独自の視点」というのは十分に面白さだろう。

物語を書くならば、まずはキャラクターの設定や具体的なエピソードをたくさん作る。「国東探訪」であれば、資料やデータ、写真などを集める。
文章として形になる分の、少なくとも倍は集めたい。

集めた素材は、整理整頓しておくと後が楽だ。
PCでの作業なら、検索しやすいファイル名をつけたり、同じフォルダにまとめる。アナログ派ならば、ふせんに書き出しておく。
私はふせんを愛用している。全体を見渡すのが簡単だし、次の作業で並べ替えるのにも便利だからだ。

2.並べる

次に、集めた素材を並べ替える。
基本的には、「起」「承」「転」「結」で全体量を4分割する。
1時間の講演原稿であれば15分ずつだし、1000字の文章なら250字が目安だ。(もちろんぴったりである必要はない。あくまで目安だ。)

一度、ハリウッドの脚本の話に戻ろう。
2時間程度の映画を一本思い浮かべてほしい。

 1:0分〜 物語の背景の紹介
   (場所、年代、登場人物、世界の前提など)
 2:30分 何かが起こって物語が動き始める
 3:1時間 「転」それまでの常識がひっくり返る
 4:1時間半 最後の戦い・クライマックスのはじまり
   エンディング

改めて映画を見ると、実に多くの映画がこんな構成になっている。
スター・ウォーズのエピソード4でいうと、

 1:姫、ドロイド、ダース・ベイダー、ルーク、オビ=ワン登場
 2:30分 姫のメッセージを見る→旅立ちへ
 3:1時間 デス・スターに出会う→これ倒せるの…?
 4:1時間半 オビ=ワンが死ぬ→破壊ミッションへ
   勝利

こんなふうに物語が動いている。
ちなみに、旧三部作(エピソード4〜6)の真ん中では、敵だと思っていたあの人の重大な秘密が明らかになるし(見てない人にも見て欲しいのであえて伏せます。)、新旧三部作(エピソード1〜6)の真ん中では、アナキンが暗黒面に落ちてしまう。(この視点で見ると、新旧三部作の主人公は完全にアナキンだなあと思う。)
ジョージ・ルーカスは、神話の構成を熱心に学んでエピソード4の脚本を書き上げたことで有名だが、物語全体も入れ子構造になっているのがわかる。

「起」「承」「転」「結」の中でも、特に真ん中の「転」はとても大事だ。
もう少し例を挙げてみよう。「転」では、こんなことが起きたりする。

 ・殺人事件の犯人だと思われていた人物が、真犯人によって殺される
 ・敵を本気で倒しに行ったら、予想外の反撃を食らって逆に大ダメージ
 ・味方のひとりが、実は黒幕だった

今までAに向かってすべてが進んでいたのに、Aが成立しないということが明らかになる。それによって、強制的に方向転換を迫られるタイミングなのだ。(伝わるだろうか。)
これによって、盛り上がりが生まれ、リズムができる。

国東探訪では、「この神社はこんな謂れがある。〜(ここで関連資料の紹介など)〜しかし、それだけでは説明のつかないことがある」というように、真ん中くらいに、それまでの話をひっくり返すような謎をはさみこむようにしている。
「転」から作っているといっても過言ではない。

3.捨てる

最初に素材を集めることが大切だと言ったが、それと同じくらい、集めた素材を捨てることが大切だ。
どんなに気に入っているエピソードであっても、物語の軸がぼやけるものは捨てる。捨てきれなくて、主人公の性格や動機がぼやけてしまったり、物語が混乱したりしてしまう映画もよくある。

わかりやすくするためには、仕方ないのだ。
涙を呑んで捨てよう。

国東探訪では、本文に盛り込めなかった面白い話を、写真のキャプションとしてなるべくリサイクルしている。

最後に

以上、3ステップを紹介した。

「ハリウッド式」と大胆に銘打ったが、私自身はそれほど厳密に運用しているわけではない。改めて国東探訪を読み直したら、全く乗っ取っていない可能性もあるなと思いつつこの記事を書いている。書き始めるときは常にこの構成どおりに組み立てるのだが、国東探訪は4000字程度なので、そんなに盛り上げなくても読み進めてもらいやすい。そういう場合は、最終稿にたどり着く前に構成自体を捨ててしまう。
機械的に構成を立てられるのはとても楽だし、何よりも実際に「わかりやすい」「内容の割にさらっと読める」とお褒めの言葉をいただいている。さすがハリウッド。

何かの折に役立ててもらえれば幸いである。

クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。

クラウドファンディングのプロジェクトを立ててみた。

国東愛が高じすぎて、自腹で印刷してただで配布するという、ドMフリーペーパー「国東探訪」を作っている。(「国東探訪」について
しかし「これではやっていけない」とようやく気づき、悩んだ末、2017年度はクラウドファンディングで印刷費を支援してもらえないだろうかと考えてプロジェクトを立てるに至った。


結果。

なんと、プロジェクト開始3日で成立した。(ありがとうございます!!!)

達成後も支援してくださる方がいて、予想外に増刷までできることになった。今までは200部しか印刷していなかったので、なるべく節約しながら配っていたが、現在の支援額から逆算すると500部刷れる。
2.5倍である。
まるで夢のようだ。(ありがとうございます!!!!!)


葛藤。

さあプロジェクトを公開しよう!という瞬間、「クラウドファンディングをしないほうがいい理由」がまるで走馬灯のように頭を駆け巡った。
「100万円レベルのプロジェクトが並ぶ中、6万8千円ってどうなの」にはじまり、「集まるわけないよ」「それくらい自分で出せばいいじゃん」「甘えてるんじゃないの?」と心の声に罵倒された。

今思うと、私は恥ずかしかったし、怖かったのだ。

クラウドファンディングというのは、要するに「私は(金銭的な意味で)困っているので、誰か助けてください」と求めることだ。
他のプロジェクトを見ていると、地域を盛り上げたいとか、新しい場所を創りたいとか、どれもきらきらと輝いて見える。
一方の私はといえば、事業規模の小ささもさることながら、新規事業ですらない。「ノープランではじめたら困ってしまったので、助けてください」と言っているに等しい。図々しいにも程がある。

私は基本的に見栄っ張りなので、きちんとしていると思われたい。
「やめておこうかな」と一瞬考えた。


恐怖の先へ進む。

私が「これはやりたくないな」と思うときには2種類ある。
ひとつは、身体の奥底から警鐘が響いてくるとき。
理屈の上ではどんなに素晴らしいプランであっても、「なんとなくこれはやばい」と感じることがある。そしてその勘は大抵当たる。
もうひとつは、「怖い」と感じるときである。

人間は、未知のものに対して恐怖を覚える生き物だそうだ。
「怖い」と感じるときは、既知の領域から踏み出そうとしているとき。
だから「わー、なんかよくわかんないけどどうしよう!」みたいなときは、とりあえず進むようにしている。

「やめておこうか」と頭に浮かんだとき、同時に「あ、私は怖がってるな」と感じた。
怖いなら、行くしかない。
不安をはじめとするすべての後ろ向きな気持ちを一瞬だけ封印して、プロジェクトを公開した。

結論から言えば、進んで正解だった。


クラウドファンディングで私が得たもの。

クラウドファンディングは資金を集めるための方法だが、得られたのは金銭的な支援だけではない。
「じゃあ、それはなんなのか?」と聞かれると、自分の中でもまだまとまっていない。

強いて言うなら、「生きていてもいいんだよ」と自分の存在を肯定されたときの感覚に似ている気がする。(ということは、ただの承認欲求かもしれない。)

今思えば、私にとって「国東探訪」というのは、完全に閉じた世界だった。
「面白かった」とか「楽しみにしてる」と声をかけてもらうことはあったけれども、頭では理解していても心には届いていなくて、常に「私の、私による、私のためのフリーペーパー」だったように思う。

今回、本当に、いろいろな立場の人がいろいろな理由で支援をしてくれたことに、それはもう本当に驚いていて、なんというか、海外ドラマで棺桶に入れられたまま墓地に埋められてしまって一生懸命外に向けて叫んでいたら助けが来てくれて「あ、私の声をちゃんと聞いてくれた人がいたんだ」みたいな、そんな気持ちです。(これを読んだ人にどう伝わるのか想像しきれてないですが、私の心が驚きと感謝と生きる歓びに満ち溢れています。)
何だかわからないなりに、とてもとても大切なことに気がつくことができたという確信があるのだけれど、それがなんなのかはこれから見えてくるのかもしれない。


古代ロマンと謎があふれる国東半島のフリーペーパー「国東探訪」を継続したい