人の想像力と無意識の深さが底なしでびっくりする

神田昌典氏著「ストーリー思考」を読んだ。
そこで紹介されている「フューチャーマッピング」を試しに書いてみたらすごかった。


フューチャーマッピング

フューチャーマッピングとは、考えたいことや解決したい課題をいったん全部横に置いておいて、その問題とは全く関係ない物語を自由に想像する。それによって、普通に頭をひねっていても思いつかないような面白いアイディアを思いついたり、問題解決の糸口が見つかったりする…という、ちょっと何を言っているかわからない手法です。

(考えてもわからないので「おもしろそう」と思った方は、動画を見ながら1回やってみるといいと思う。)
(もしかしたら最初は難しいかもしれないです。(私は昔こういうのを教えてもらったことがあるので。)でも慣れます。)

フューチャーマッピング
https://future-mapping.com/

解説動画はこちら。
https://future-mapping.com/movie/

 


プレゼントを思い浮かべる

マップを書いていくと、途中で「ある人が自分にとても感謝してくれて、プレゼントをくれる」という状況を想像する場面がある。
「プレゼントはどんな箱に入っているか」「中から出てきたのは何か」について、具体的にイメージしていく。
(もしよかったら、ちょっと想像してみてください。)

まず、私の脳裏に浮かんだのは、水色やピンクや黄色のハッピーな感じの絵柄(虹とか描いてある)で、ピンクのぼぼーんとボリューミーなリボンがついている箱。
そして、その箱を心の中で開けてみると、まるっこいけれど球体ではなくいびつな、強いていうなら木魚のような形で、ピンクや水色のパステルカラーがきらきらと光の加減で色を変える、メタリックな輝きの、なんだかよくわからない物体が現れた。

意味がわからない。

その物体のよくわからなさ(何でできているのかも謎)もさることながら、自分で考えているはずなのに、自分にもなんだかわからないものを思い浮かべてしまうことに衝撃を受けた。

よくわからないまま「まるっこくてアシンメトリのオブジェ(?)。ピンク〜水色で、表面がメタリック」とメモをして、先に進んだ。

 


プレゼントの正体

マップを書いていると、とても自分では思いつかないような言葉が出てくる。
今回気になった言葉は
・今ないことをするんじゃなくて、本当にやりたいことはこれまでやってきたことの中にある。
・ひとりでやっていると思うから息切れする。弱音をはくこと。弱いって言えたら強くなる。
だった。

書き終わったマップ全体を見返しているときに、不意にオブジェ(?)の正体に気がついた。
2年ほど前にいただいた、新潟県阿賀野市にある旦飯野神社の水琴鈴のお守りだった。
勾玉のかたちで、金属でできていて、水色なんだけどパールのようにいろいろな色に輝く。(そして、とても素敵な音色で鳴る。)

勾玉のお守りは、「応援してるよ」と声をかけてくれる人たちの象徴なのだと思った。(今までクリスタルや他のパワーストーンと一緒にしまっていたのだけれど、早速持ち歩くことにしました。)

 

私の潜在意識が、顕在意識に対して、映像でこのお守りのイメージを伝え、それを顕在意識が一生懸命解釈する(しかも一度間違える)というのは、不思議な体験だった。
潜在意識は言語を使わないということも実感したし、自分の中の意識同士ですら意思の疎通に失敗することがあるということがわかった。

自分の中にぽかんと穴が空いているような、無限の拡がりを感じた。

 


 

さて、あまりにおもしろかったので、もう一度プレゼントをもらってみることにした。

今度の箱は、青と黄色のストライプ。小ぶりの箱で、軽い。振ったらカタカタと軽い音がした。
中を開けると、黒くつやっとした小さな塊が入っていた。見た瞬間、鉄だ!(国東半島は鉄の産地です。)と思ったけれど、軽い。しばらく悩んで、黒曜石だということがわかった。しかし、真っ黒だったので姫島産ではない。(姫島産の黒曜石は白っぽいのが特徴。)

この黒曜石が何を意味しているのか。現時点ではまだわからない。でもきっと、何か大切なことを暗示しているのではないかと思っている。

kamenosの読書会。

日出町にある素敵なカフェ、kamenosで読書会をした。

事の発端は、kamenosのオーナーであるじゅんこさんが私のブログを気に入ってくれたことによる。
kamenosを訪れたときに「ちひろちゃんの文章、いいよね。やっぱり本をたくさん読んでるの?」と聞かれ、私はたしか「本は好きなんですけど、読んでますと言えるほど読めてはいないんです」と答えたと思うのだが、じゅんこさんはそのまま「私はずっと本にあこがれててここで読書会をやりたかったんだけど、ちひろちゃんやらない?」と振ってくれて(そんなじゅんこさんが大好きです。)「ぜひ!」と話がまとまった。

「読書会ってなに?」とときどき聞かれるのだけれど、基本的には本が好きな人たちが集まって語り合う場だと思っている。
いちばん多いのは、それぞれのお気に入りの本を持ち寄って紹介する読書会だろう。好きな本の傾向が似ている人との出会いも面白いし、普段なかなか読まないような本と出会う面白さもある。(ビジネス書や漫画など、ある程度ジャンルを限定した会もある。)
私がはじめて参加した読書会は、1冊の本をひとりひとりが読んだ上で集まって、それぞれの感想を話し合うタイプの読書会だった。自分が読み流していた部分を深く読み込んでくる人がいたり、同じ文章でも私とは違う受け取り方をしている人がいたり、1冊の本をひとりきりで読むよりもっとずっと何倍も楽しめて本当に楽しかった。
とはいえ、「1冊の本を読みあうのはちょっとハードルが高いね」ということになり、1回目はお気に入りの本を持ち合う会にしようと決まった。
ゆっくり話ができるように人数は少なめにしたいね。
話題をより共有できるように、なにかテーマがほしいね。
話はとんとんと進んで、じゅんこさんが提案してくれた「どこかに猫の出てくる本」が第1回目のテーマになった。

当日は、ふたりの女性が来てくれた。
「どこかに猫が出てくる本」どころか、タイトルや表紙から完全に猫の本ばかり。しかも、ひとりは小説、もうひとりは絵本、そして私はエッセイと、本としてのジャンルは全く違う。こういうテーマの設定の仕方、やっぱりいいなあ。いろいろな本が集まりつつも共通項があっておもしろいなあと、本が並んだ時点ですでに私は相当楽しんでいたのだけれど、当然のように3人とも猫が好きなので、猫の話でそれはそれは盛り上がった。

飼い猫との出会い。日々の暮らし。そして、別れ。

私自身はまだ猫との別れを経験したことがないのだけれど、ちょうど「自分が猫を残して死ぬ」という状況について考えをめぐらせていたところだった。「いや、さすがに猫のほうが先でしょう」と思われるかもしれないが、人生何があるかわからない。急な病気だってあるし、事故だっていつ起こるかわからない。そもそもは「亡くなった飼い主の動画を携帯で見る猫」の動画を見てしまったのがきっかけで(猫がじっと画面を見つめた後、携帯にそっと頭を寄せて目を閉じるという静かな動画なのだけれども、静かなだけになんとも悲壮感が漂う)、「私が死んだら猫たちのことはどうしよう」と考え始めたら止まらなくなっていた。(ちょっと遠いけれど、新潟に住む妹にお願いしようと決めました。)

「人間は一生、猫にすら勝てない」とは、読書会に途中から参加してくださった猫と本を愛する男性の名言だ。私の手帳にメモが残されていたのだが、どんな文脈で出た言葉だったのかは覚えていない。しかし、あれこれと思い煩ってあがくのは人間で、猫はすべてを、死すらも受け入れているように見えると話してくれた。(「人間は弱いからこそ知恵をつけたのかもしれないですね」という話も出た。それとも知恵があるからこそ弱いのだろうか。)
たくさんの猫を見てきた人たちの言葉には、ほんの何気ないひとことにもずっしりと重みがあって、生きること、そして死ぬことについて、直接語り合ったわけではないけれども私なりに感じるところがあったのだろう。読書会が終わってみると、猫との別れを思い悩まなくなっていた。

じゅんこさんは読書会について、「人との出会いや気づきがあって、それを日常に持ち帰ることができるような場にしたい」と話してくれていた。少なくとも私にとっては、じゅんこさんが思い描いたような時間になっていたなあと思う。

次回のテーマは、「コーヒーの香りを感じる本」の予定です。たのしみ。

 

 


せっかくなので、持ってきていただいた本をご紹介。

1冊目は「旅猫リポート」。

ほんの概要を聞いただけで涙腺がゆるみきってしまった、恐ろしくも美しい本。(厳密には私は読んでいないのだけれども、出てくる人や猫の思いや風景がとてもやさしく美しいのだろうなと思いながらお話を聞きました。)猫目線の、猫と人とのロードムービー的な小説だそう。裏表紙の概要でだいたいの展開がわかってしまうのですが、なんとなく心地良い風が吹いていそうで、読んでみたくなりました。(私の覚悟が決まったら読みます。)

そして、可愛い絵本たち。

とにかく絵がかわいくて、眺めているだけでにこにこしてしまう「猫のプシュケ」(ただし読むと切ない)。私自身が長子だからか、とても直視できないほど心に刺さる「ねえ だっこして」。ここまで泣いてばかりで、猫の絵本って切ない話ばっかりか!(100万回生きた猫とか)とめそめそしていた私を癒してくれた「うきわねこ」(ものすごくいい笑顔でおかかおにぎりを食べるこねこ、えびおがかわいすぎました!)。私は普段あまり絵本は読まないのですが、やっぱりいい絵本はいくつになって読んでもおもしろい。心揺さぶられる。

私が持って行ったのは金井美恵子氏のエッセイ。

私の文章は、多分にこの方の影響を受けています。内容は毒舌辛口エッセイですが、著者は17年間共に過ごした飼い猫を亡くしたばかりで、猫の気配がすごい。たんたんとした文章の中にふいに滲む、猫との時間。いつもタイトルを「猫の一生」と間違ってしまうのだけれど(本当は「猫の一年」)、文中でも「編集者に『猫の一生』と間違えられた」というくだりがあって、やっぱり…と思う。

ブックカバーを買ってから、カバーに合う本を選ぶ。

スカイツリーのお膝元、墨田区向島に一軒家を改装したカフェがある。

お茶が大好きで、提供するメニューにもすべてお茶を使っているというikkaさん。その二階に、甘夏書店さんという古書屋さん(と呼ぶにはあまりに可愛らしい手ぬぐいや紙雑貨も扱っている素敵なお店)がある。


久しぶりに寄った甘夏書店さんで、ブックカバーを買った。いいなあいいなあと思って選んでいるうちに、3種類(7冊分)も買ってしまった。

店主のあけみさんは、本と紙が好きで、そしてきっと人が好きなのだろうなと思う。何かひとつ手に取ると「そのリトルプレスはね」とか「その手ぬぐいは、実は」とか、作った人のことや経緯、思いをそれは楽しそうに話してくれる。(東京で唯一甘夏書店さんに国東探訪を置いてもらっているのだけれど、あれを手に取った人にあけみさんはどんな話をするのだろうと気になっている。)
ブックカバーのうち2種(ブッダとハシビロコウ)は自分の好きな本につけようと選んだのだが、もう1種類は最初は買うつもりではなかった。エアコンの室外機だとか煉瓦造りの壁だとか、東京の何気ない風景を切り取った写真をプリントした紙のカバーだったのだけれど、「本に巻くとこんな感じになるの」とあけみさんが見せてくれた文庫本が、懐かしくもどこか寂しげな佇まいで、「このカバーを巻いてある本を読みたい」と思ってしまって迷わず買った。

ブックカバーを買ったので、そのカバーを巻きたい本を選ぶことにした。

ちょうど金井美恵子の文章について想いを馳せる機会があったので、そうだ金井美恵子のエッセイにしようと思い立ち、Amazonで「猫の一生」というこれまたちょうどいいタイトルの本を購入したのだけれど、浮かれすぎてよく見ていなかったのか、家に届いてみたら単行本で(新刊が存在せず、古書を買ったので値段では気づかなかった)、残念ながらカバーに入らなかった。「猫の一生」にはブッダのカバーをかけることにして、国東市の数少ない本屋のひとつであるGEOに行き、文庫コーナーを彷徨いながら、湊かなえもひさしぶりに読みたいけれどこのカバーには合わないなあ、伊坂幸太郎が正解かなあとぼんやり歩いていたら、背表紙に「蜷川実花になるまで」と書かれた本が目に入った。
私は蜷川実花をよく知らない。と言っても、「さくらん」や「ヘルタースケルター」の監督をしていたことは、知っている。お父さんが映画監督なのも知っているし、道後温泉に行ったら蜷川実花プロデュースのライトアップがされていて「それっぽいなあ」と感想を抱いたので、蜷川実花に対して自分なりに一定のイメージは持っている。しかし、名前をなんと読むのか、なぜか何度聞いても覚えられない。(ということはお父さんのことも文字でしかわからない。)
「なんて読むんだっけ」と思いながらもその本を手に取り、数ページめくったところでなぜか「この本だ!」と閃いたので、買って帰った。そして、いそいそと錆びついたガスメーターのプリントされたカバーを巻きながら、普通に本を選んでいたらきっとこの本を見過ごしていただろうなあと考えていた。


そもそも甘夏書店さんに行ったのは、水彩画の個展をするためにしばらく東京にいたからだ。

「個展をします!」と言ってみたら、いろんな方が「おめでとう」と声をかけてくれたり、期間中には本当にいろんな場所から足を運んでくださった方がいたりして(日曜日は特にカフェのお客さんも混み合っていて、せっかくおいでくださったのにゆっくり見ていただけず申し訳ありませんでした!)、ありがたいのはもちろんのこと、終始びっくりし通しだった。

どうやら、個展には成功と失敗があるようなのだけれど、ただのアマチュアである私にとって今回は「私は絵を描いています」と言うことこそが目的だったのではないかと振り返ってみて思う。誰も見てくれなくても、褒めてなんてくれなくても、「私がやりたいからやる」という自分の気持ちを確認したかったのではないか。だから、直接縁のない東京を選んだのではないか。
しかし、結果として、みんな優しいな!!ということを強く感じた5日間になった。
(お忙しい中おいでくださったみなさま、行きたいよとおっしゃってくださったみなさま、本当にありがとうございました!!!)

思い返せば、阿賀町で展示させてもらったときもそうだった。新潟市からは遠いし、「来てほしい!」と広く声をかけるには自信がなくて、かなりうじうじしていたにも関わらず、思っていたよりずっとたくさんの人が足を運んでくれた。ひとりきりで動いているつもりでも、本当は私自身が目を向けることを恐れているだけで、力強く応援してくれる人たちがいるのだということ。そういう経験を重ねる機会に恵まれて、今の私は一歩踏み出すことを迷わなくなったのだと思う。(もしかすると、今はもうちょっと迷ったほうがいいかもしれない。)


個展をしてみるという種を蒔いた結果、思いも寄らないところから芽が出た。

「個展でしばらく東京にいるなら、銀座のギャラリーに行ってみるといいよ」と言ってくれた人がいて、撤収後銀座に行った。
昭和レトロなギャラリービルをふらふらと歩いていたら、とあるギャラリーでオーナー兼画家のおじさまと話に花が咲いた。ご自身の絵についていろいろ語ってくれるのを興味深く聞いていたところ、「あなたも絵を描くの?」という流れから、持っていた絵を見てもらいつつ「大分県の国東半島というところから来たんです」と話したら、「大分か、むかし武蔵町にアパートを持っていてね」と言う。武蔵町?なんか聞いたことあるな…と一瞬思ったが、いや、それ国東市じゃん!!(10年前に合併して、武蔵町は現在国東市になっている)というまさかの偶然から再び話が盛り上がり、「来月ここでグループ展をするんだけど、作品を出してもらえたらうれしいな」とおっしゃってもらって、なぜか来月も展示の機会をいただいた。


まれに「個展なんてすごいね」と言ってもらうこともあったけれど、個展は会場を予約して、告知して、作品を用意したらできることなので、全然、何ひとつすごくない。ただ、その過程を経ることで自分の準備が整ったから、そんな話が降りてきてくれたのかなと感じる。
ブックカバーがあったら本がほしくなるし、「絵を描いてます!」と言い続けていたら見てもらう機会がめぐってくるものなのではないか。

「蜷川実花になるまで」は、まだほんの数ページしか読めていないのだけれど、写真家になってからの10年(発行当時)を振り返るような内容で、今までの写真家としての活動や展示について書かれているらしい。きっと、やっぱりこの本で合っていたんだなと思う。(そして、もしかしたら私も荒井ちひろになりたいのかもしれない、とも思う。)