会いたい人に会いに行く。

ずっと好きだった水彩画家、永山裕子さんの個展を見に、東京に来ている。

数カ月前。
毎日目の前のことに追われて鬱屈としていた。以前なら「よし!なんかわかんないけどどこかに行こう!」と多少無茶な旅に出たりしてリセットしていたのだけれど、1年前に猫と暮らすようになってからは旅に出なくなった。

しかしある時ついに爆発して、まとめて出かけないならこまめに出ればいいじゃない!と思い、関西で開講しているイラスト講座に申し込んでしまった。2年ほどTwitterで追いかけてた眼福ユウコさんの「水彩で楽しく描く人物イラスト講座(全6回)」だ。

(眼福先生のTwitterは こちら。)

新潟にいた頃に水彩をやっていたのだけれど、私の描く絵はちんまりとあからさまに自信なさそうな空気を醸し出していて、あまり好きではなかった。
眼福ユウコさんのイラストはビビッドで、人が生き生きとしていて、見ているこちらの空気も軽くなる。こんな絵が描けたら楽しいだろうなあ、と憧れた。けれど、講座はほぼ関西(まれに東京)でしか開講されないから、いつか行ってみたいなと思うだけだった。

実際に行ってみたら、世界がひっくり返った。

長年「私の絵は(素人の割には)比較的正確だけれどくっそつまらない」と思っていたけれど、その理由が判明した。
かつての私は、いつも正解を探していたのだ。
自分では気づいていなかったけれど、どこかにあるはずの正解をいかに早く正確に読み取るかという世界にずっとずっと生きていたのだと思う。ここで言う「正解」とは、自分ではなく、他人の目から見て「正しい」もしくは「おかしくない」状態であることだ。下手だったときは、上手くなることが絶対的な正解だった。ようやく少し描けるようになってきたら正解を見失ってしまい、絵が描けなくなった。
もちろん、絵に正解なんてない。それでも、どこかに正しさを探さずにはいられなくて、見つけられなくて、だからこそ苦しかったのだ。

眼福先生は優しくて、「これはどうやって描いたんですか」とか「こうこうこういうふうに描きたいんですけど、いつもこうなっちゃうんですけど、どうしたらいいですか」とか、細かい質問にも丁寧に答えてくれて、時間はあっという間に過ぎた。そして、私は国東に帰ってからもいそいそと絵を描くようになった。絵を描くことってこんなにも楽しかったんだな!!!と衝撃を受けた。(今も日々びっくりしてます。)

もちろん、好きで楽しかったから描くことを続けていたのだと思うけれど、思い返すといつもどこか苦しかった。
今も、思ったように描けなくてもどかしいと思うことはある。けれど、息苦しさがない。

結局6回中4回しか行けなかったけれど、すごく、すごくすごく、すごーーーーく大切なことを教わった。私は、絵を描くのがとても好きなのだということ。そして、「絵はもういいや」と興味を失ったつもりでいたけれど、本当はあのとき私は諦めていたのだということ。

今、私の周りにはアーティストとして人生をかけて創作に向かいあっている人が多いので、ものすごく正直な気持ちとしては私ごときが「絵を描きます」だなんて、口にするのもおこがましい。そして、恥ずかしい。
でも、好きって言うくらいはいいじゃない。
もっとうまくなりたいって思ってもいいじゃない。
(今、永山裕子さんのデモンストレーションを水張りから見たばかりでテンションが最高潮です。)

自分の気持ちを4年もかかってようやく認めることができて、あまりにも嬉しくなったので個展をしようと決めた。
5年前にはじめて展示の話をいただいたとき、今にも「無理です」と言い出しそうな私にオーナーさんが「描くだけが絵の勉強じゃない。額装して、壁に飾って、人の目に晒すことでしか見えてこないものがある」と言ってくれた。そして、終わってみたらその通りだった。今回も、もう一歩踏み込んでみようと思う。

ここで、「私のような者がすみません」という気持ちは一瞬封印して告知をしたいと思います。

2017/11/9(木)~13(月)
「猫と暮らす」展
cafe&gallery *LUPOPO*(東京都世田谷区三軒茶屋)

猫まみれですが、そしてなぜか東京ですが、足をお運びいただけましたら幸いです。

最後になりましたが、新潟出身のくせに帰ってきてみたら誰ひとり友達がいなくて、でもなんだか成り行きで二人展をすることになってしまって最高に心細かったときに、阿賀町まではるばる足を運んでくださったみなさま。私は今最高にお礼が言いたいです。本当にありがとうございました!

最後、と言っておいてさらに余談ですけど、当時のいちばん気に入っている作品には猫が小さく描き込んであります。今でこそ猫ばかり描いていますが、なんだか壮大な伏線のようで不思議だなあと思っています。

夢は叶えるものではなくて、出会うもの。

クラウドファンディングのプロジェクトを立てたことから(参考記事:クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。)、「国東探訪」の取材を受けるという棚ぼたに恵まれた。

その中で「これからどんな暮らしをしていきたいですか?」という質問を受けた。一生懸命考えて「今が最高に楽しいので、こんな感じだったらいいなと思います」というようなことを(たぶん)答えたところ、「夢を叶えていて素晴らしいですね」とまとめられた。

その瞬間、ものすごい違和感を覚えた。
私はこんな暮らしを夢見ていたことがあっただろうか。

将来の夢。

夢ってなんだろう。
そういえば、私はあまり夢を持った記憶がない。
(忘れているだけという可能性がなくもないが、夢を叶えるために何かをがんばったという記憶がない。)

小学生の頃に誰もが「将来の夢」を書かされたと思うのだけれど、低学年の頃は「バレエを習っているからとりあえずバレリーナって書いておけばいいだろう」、高学年になってさすがにバレリーナは厳しいなと気づいてからは「両親が教師だから教師って書いておけばいいだろう」で切り抜けてきた。
なんの目的もなく留学してしまったり、専門学校も半年で中退してしまったり、ようやく税理士をめざすことにしたと思ったら国東に来てしまって大学院も中退したりと、真剣に何かひとつのことに取り組むということができないまま今もふらふらしている。

理想の暮らし。

私はどんな暮らしがしたいのか。
地域おこし協力隊として国東市の移住支援に関わっていたときには「緑の多い土地で家庭菜園を営みながらゆっくり暮らしたくて、国東を選びました」なんて話もよく聞いた。

一方の私といえば、なんとなく住んでみたくて国東に来て、なんだかすごく雰囲気が気に入って種田に落ち着いているけれど、べつに人里離れて暮らしたかったわけではない。
そもそも新潟を離れたいと思っていたわけでもないし、移住を考えたこともなく、新潟に骨を埋めるつもりで生きていた。
種田に来てからは猫を飼い始めて、最近2匹に増えたばかりだけれども、そもそも猫が特別好きというわけではなかったし、人生において猫を飼いたいと思ったことも特になかった。(今ではすっかり猫好きです。)
むしろ、私は本当はコンビニが大好きで、カップラーメンの新商品や季節限定のコンビニスイーツに目がないし、基本的に怠惰なのでテレビを見始めると何時間も見てしまう。しかし、コンビニから遠く離れた土地に、テレビもなく暮らしている。

そして、私は今の暮らしがとてもとても気に入っている。


夢を持って、それを叶えるために努力する。
それはとても美しく、素晴らしいことだ。
(できることなら、私もそんなふうに生きたかった。)

しかし、なんの夢もなくても、毎日をただただ過ごしているだけでも、「今あるものだけで十分にしあわせ」と思える場所にたどり着くこともある。

夢を見なければいけない。
目標を持たなければいけない。
そんなふうに思ってはいないだろうか。
少なくとも私は、自分の生き方に対してずっと引け目を感じていた。

夢もない。目標もない。
「国東探訪」も2018年度はどうするのか、まだ考えていない。
言葉にするとただのだめ人間だとばれてしまうけれど、しかし未だかつてないほど自分の中で「これでいいのだ」感が高まっている。

「今が最高に楽しい」と言っても、ずっとこのままの状態でいたいとは思っていない。
この先どうなるかわからないけれど、それでもいつもその時が最高だと思える日々を送ること。それは、夢でもなく目標でもなく、すでに私の手の中にあるような気がしている。

猫は鏡である。

ひさしぶりにやられた。

パソコンに向かっていると、りゅう(茶トラ♀1歳)が「遊ぼう」とにゃあにゃあ声をかけてきた。「ちょっと待って。あと3件だけ返信するから、もうちょっとだけ待ってて」と後回しにしていたら、ソファの上でなんだかもそもそしている。よく見たら、出しっぱなしにしていたニットの上にいたしていた。

 
抗議の粗相である。
 

おーーーーーーーーーーーい。
え、ちょっと、
おーーーーーーーーーーーい。
やめてくださいよそういうの。
ていうか、そのニット高かったんですけど。
(出しっぱなしだったけど。)

しばし呆然とするもなんとか気を取り直して、トイレはここではないということをこんこんと(無駄だと思いつつ)言い聞かせながら、りゅうをトイレに放り込んだ。りゅうはりゅうで、にゃむにゃむ何かを訴えている。

最近いくつかプロジェクトが並行して動いていて、慌ただしく過ごしている。たしかに、昨日も1日留守にしていた。しかし、以前にも粗相事件があったので、りゅうを寂しがらせないように気をつけているつもりだ。昨日も帰ってきてから「遊んで」コールに応えて鬼ごっこにも付き合った。
それなのに、なぜだ。いったい何がご不満だというんですか。
(基本的に猫に対しては「さん」付けで敬語です。)

トイレから脱出し、何食わぬ顔で横を通り過ぎようとするりゅうを捕獲して、膝の上に乗せた。
すっかりあたたかくなったからか、最近はあまりくっついてこない。
どうせすぐ降りるだろうと半分嫌がらせのつもりだったのに(半分は私のもふもふ欲を満たすため)、りゅうは香箱座りで落ち着き出してしまった。

 
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縁側に、私と猫。

猫を膝に乗せているので、動けない。
スマホも何も持っていない。

手持ち無沙汰なので、りゅうをなでることにした。りゅうは一度起き上がって私の膝上を掘り、丁寧に座り心地を整えてからまた手足をしまって座った。

こんなことしてる場合じゃないんだけどなあ。

そう思いながらも、他にすることもないので、りゅうをなでる。
外は雨。少し開いた窓から、ひんやりとした空気が入ってくる。
膝上では猫がごろごろごろごろ鳴いている。

そういえば最近何かひとつに集中することがなかったな、とふと思った。
こっちの文章を書いたら、そっちの資料を印刷してチェックして、別件の連絡をする。ごはんを食べながら本を読んで、お風呂に入りながら本を読んで、車の移動中にはオーディオブック。
りゅうと遊ぶのも、ごはんを作る合間やお湯を沸かしてコーヒーを淹れる途中だった。

りゅうをなでることに意識を向ける。

ふと、海辺のカフェで友達とただただのんびりしたり、縁側でお茶をいただいたりした記憶が蘇った。思い出しただけで、なんだかうふふと心があたたかくなる時間。
そういえば、打ち合わせや取材じゃなくて、ただ会うためだけに人と会う時間がすっかり減っているんじゃないか…。

そう気づいた瞬間、近くで鳥が鳴いて、りゅうは膝から降りてすたすたと行ってしまった。

 
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効率的であることとか、メソッドとか、フレームワークとか、そんなことに捕われすぎていたのかもしれない。そんなことを思った。
私は基本的に自信がないのだ。だから、枠組みを求める。きちんとしていなければいけないし、完璧でなければいけない。実際にはきちんともしていないし完璧でもないのだけれど、だめな自分を受け入れきれてない。だから、足りていないと思う部分を埋めようとしてしまう。
ここ数年でだいぶ手放してきたつもりだったけれども、慌ただしさで見えなくなっていたようだ。

なにか大切なことを忘れてるんじゃないの?
一言も発することなく、自分自身を省みる時間をくれた猫。
ねえ、あなたもしかして神さまなんじゃないの?なんてことをちょっと考えたけれど、粗相のにおいで我に返った。

(余談だが、ニットは断捨離することに決めた。)