貨幣を介さない経済圏〜種田の寒ひじきがはじまりました。

新潟にいた頃、「お金に縛られない生き方」(副業や複業、半農半Xなど)について考える機会が身近にあった。その中で「貨幣を介さない経済」(いわゆる物々交換)について話し合ったり実践する機会もあったのだけれど、いろいろ試した結果「でもやっぱりお金って便利だな」という結論に至っていた。
そのままそんなことは忘れていたのだけれど、最近突如種田に「貨幣を介さない経済圏」が出現した。


寒ひじきをご存知でしょうか。

話はしばし遡る。

「国東に来てから美味しさを知った」という食べものが結構ある。ジビエやマテ貝など、それまで一度も食べたことのなかったものもあるし、最近いただいた朝採りしいたけもまた絶品だった。
その中でも、寒ひじきの美味しさは衝撃的だった。

ひじきを食べたことがないという人は、おそらくいないのではないか。時には御膳の小鉢として、あるいはお弁当の惣菜として、好き嫌いに関わらず口にすることの多い食材だと思う。

ひじきは、このあたりの名産品である。
毎年4月になるとひじき漁がはじまる。種田でもひじき漁が盛んで、この時期になるとメインストリートが天日干しのひじきに占拠されてしまうほどだ。
(参考記事:田舎暮らしで驚いたこと。〜鹿とひじき。

道路一面を埋め尽くすひじき。
道路一面を埋め尽くすひじき。

それが、いわゆる普通のひじきである。
寒ひじきは違う。

寒ひじきは、「寒」の名のとおり、12〜1月の寒い海で採るひじきである。まだ若い芽を採るため、漁が解禁されるのは1年にたった1日。実質的には早朝の4時間程度だという。このときに採られずに残ったひじきが、やがて育ち、春のひじきシーズンに採取されて店頭に並ぶ。


なぜ私がこんなにひじきに詳しくなったのか

さて、種田に住む磯崎さんの家では、毎年寒ひじきを採っていた。
今までは家族で食べたり、道の駅に卸したりする程度しか採っていなかったのだけれど、今年から本腰を入れてみようという話になったらしく、そのパッケージをデザインしてほしいと私に依頼(!)をくれた。

デザインを起こすために、ひじきについて調べてみた。
すると、なんと想像以上に栄養が含まれていてかつ低カロリーという、恐るべきポテンシャルを秘めた食べものだということがわかった。
(具体的には、カルシウムは牛乳の12倍。食物繊維がごぼうの7倍。マグネシウムがアーモンドの2倍で、ビタミンAも豊富だそうです。さらに、鉄釜で茹でたひじきは鉄分も豊富!)

調べられるだけ調べてから、磯崎さんに話を聞きに行った。
寒ひじきが1年で4時間しか採れない貴重なものだということはわかったけれど、そんなに普通のひじきと違うものなのか。すると、寒ひじきの煮物を分けてくれた。お皿にたっぷり盛ってくれたので、半分は取っておいて夜食べようと思いながら一口食べてみたところ、あまりの美味しさに全く途中で止められず、「わーー!なにこれ!え?うっまーーー!!」と大騒ぎしながらすべて食べ尽くしてしまった。

どう違ったのか。
食感が全く違った。

今までは、肉厚でふんわりと炊き上げたものが高級な「いいひじき」だと思っていたのだが、寒ひじきは完全にベクトルが違っていて、しゃきしゃきとした歯ごたえと磯の香りが後を引く、これまでのひじきの概念を覆す一品だった。
(寒ひじきでもやわらかめに茹でてあるものもあるそうです。)

ひじきといえば、和膳に似合う定番の食材で、しっとりした煮物のイメージだった。それを反映しているのだろう、ひじきのパッケージといえば白地に黒の筆文字で「ひじき」と書かれたものがほとんどだ。
しかし、寒ひじきはなかなかにアグレッシブ(?)だったので、これは普段ひじきを積極的に食べないような女性にこそ食べてもらいたいなあと思い、筆文字ではない、ポップなパッケージができあがった。

そして「こんなに美味しい上に栄養たっぷりの食べものがあるなんて、たくさんの人に知ってほしいし、食べてほしい!」と思ってしまったので、販売を請け負ってくれそうな人や飲食店さんに話をしてみたりしているところである。


貨幣を介さない経済圏

デザイン料はいただいたのだけれど、広く販売するにあたって検査に出したり、Amazonでラベラーを買ったり、販売にあたって納品書を作ったり…と最近では代理店のようになってきている。「手数料をもらったほうがいいんじゃないですか?」と心配してくださる方もいるのだけれど(ご本人からも「必要な分は請求してね」とも言われているけれど)、実際のところそれ以上の恩恵を受けている。

新鮮な野菜や魚(今日はボラのお刺身をいただきました!)をはじめ、様々なおかず(今日は魚の煮付けをいただきました!)をいただいたり、つい先日は「荒井さんはしゃーしい(忙しい)やろうから」と庭の草刈りまでしてもらった。
「えー!こんなにいいんですか!!!」といつも思うのだけれども、「あるものはなんぼでも持っていき。ないものはやらんよ(笑)」とおっしゃってくださるので、全面的に甘えている。

気がつけば、多少の事務作業で生活が格段に豊かになるということが起きていて、「これはあの【貨幣を介さない経済圏】というものではないだろうか」と気がついた。

なぜ、この場所で成立したのか。

物々交換においては、お互いの持っている物が等価であることが前提となる。
私が提供できるもののうち、たとえば占いや絵は「あったらあったでいいけれど、なくても別に困らない」という種類のものだ。1度きりの物々交換なら成立するだろうが、長期的にサービスを提供し合うような関係性は難しいだろう。「今月は車検があるから、占いとかどうでもいいからとにかく現金がほしい!!」というような場合、その時点で私のサービスの価値は下がり、等価ではなくなる。

その点、今回私が提供できたのは販売のための環境づくりと実際の販路の開拓であり、それは磯崎さんにとってどうしても必要なものだった。一方で、食べものは私にとって絶対的に必要なものであるし、草刈りも必ずやらなければならない。どちらも、それぞれの生活において絶対に削れない要素である。さらに、磯崎さんはパソコンを使わないし、私は畑も釣りもしない。そういう絶妙なバランスの上に成立したのではないだろうか。

お互いが、絶対的に必要としているけれど自分自身では賄えないものを提供し合えること。
それが「貨幣を介さない経済」が成立する条件なのだと思う。

今回は、結果的にうまくまわっているけれど、個人的には「この経済圏を広げたい!」なんてことは全く考えていない。でもせっかくこんな面白い感じに展開したので、何かのご参考になったら幸いです。


おまけ:寒ひじきの食べ方

さて、そんなしゃきしゃきと美味しい寒ひじきだが、水で戻してそのままサラダで食べても美味しい。私がいちばん好きなのは、ひじきの味噌汁だ。あまり火を通すと柔らかくなってしまうので、火を止める直前に足すと美味しい。いろいろ試した結果、豆腐と小ねぎとひじきの組み合わせが至高だと思っている。もちろん、定番の煮物も美味しい。

最後に、ひじきに含まれるヒ素について。
ひじきはヒ素が多く含まれているそうだが、ヒ素は水に溶ける。30分以上水で戻すことで、含有量はだいぶ減る。(その水は調理に使わないでください。)気になる場合は、水で戻した後にさっと茹でるとさらに減らすこともできる。

また、ひじきは日本では縄文時代から食べられているらしいのだが(なんと土器に付着していたそう。)、これまでひじきによるヒ素中毒の報告は一件もないということを併せてお知らせしておきます。

ヒジキ中のヒ素に関するQ&A-厚生労働省

廊下の端で死んでいたダンゴムシに春の息吹を感じる。

【昆虫注意!虫に関する描写があります。】

先週のこと。
朝、廊下の端に丸くて小さい、しかしほこりや砂にしては大きい何かが落ちていた。近づいてみると、ダンゴムシだった。もはや丸まっておらず、白っぽい腹部を上にして死んでいる。
それを見た瞬間、「ああ、もう春だな!」と思った。

厳しい冬が終わり、春が来る。
(国東の冬は意外と寒いです。愛知から遊びに来た子が「愛知のほうがあたたかい…」と言ってました。冬季においでの際にはお気をつけて!)

ダンゴムシの屍を前に、私の心は喜びに満ち溢れた。
そして、2秒後に我に返った。
「わーい、ダンゴムシが死んでるー」で喜べるって、どうなのそれ。

おもむろに屍を片付けながら、種田での2年間を振り返った。

私の住む家は、あちこちに微妙な隙間があるため(玄関の下からは草も入ってきます。)家の中で様々な虫に遭遇する。G、クモ、バッタ、カマキリ、カメムシ、ホタル(!)。虫というには微妙だが、ナメクジもヤモリもいる。ダンゴムシは、なぜか生きているとことはあまり見ないのだけれども、片付けても片付けても、廊下の隅でよく死んでいる。
猫がなんとなくぎらぎらしているなあ、と感じるときは大抵虫と格闘(というか一方的になぶっていて、いつもジュラシックパークのラプトルを思い出してしまう。)していて、朝になるとかつては生命だったパーツだけがぽつんと落ちていることもしばしば。昨年は、何度もムカデを見たために「ああ、またか」くらいのテンションで、長いトング(これまで100均で買った商品のうちで、いちばん良い買い物だったと声を大にして言いたい。)でつまんで捨てられるようになった。
(参考記事:田舎暮らしで驚いたこと。〜虫と共存する。
(参考記事:ついにムカデが出没した。

きっと、以前は虫との距離が遠くて、私にとって異質なものだったから怖いと感じていたのだ。わからないものは怖い。それは普通のことだ。しかし、虫は虫なりに生きていて、私も私なりに生きている。ただそれだけのことだと、今は認識しているのではないか。

しかし、冬になるとすべての虫が姿を見せなくなる。
庭の雑草も伸びなくなるし、鳥も鳴かなくなる。
畑によく入り込んできていた鹿の声や足音も聞こえない。
あらゆる生命が、動きを止める。

決して、生命が途切れたわけではない。
種田から伊美に向かう道では、今も鹿に遭遇するし、鳥もたくさんいる。しかし、春から秋のように、家にいて気配を感じることがない。

虫のいない生活はそれは快適で、そういう意味では冬が終わってしまうことに心残りもあるのだけれど、それでも、ぎゅっと固く閉じていた季節のほころびに自然と喜びを感じてしまうのは、私自身もひとつの生命だからなのかもしれない…と思いながら、それにしてもダンゴムシに季節のほころびを感じるという自分の感性の変化には驚きを禁じ得ない。

そして、ただ暮らしているだけで自分自身が変化していくという、この種田という場所が本当に好きだなあと思ったのでした。

kamenosの読書会。

日出町にある素敵なカフェ、kamenosで読書会をした。

事の発端は、kamenosのオーナーであるじゅんこさんが私のブログを気に入ってくれたことによる。
kamenosを訪れたときに「ちひろちゃんの文章、いいよね。やっぱり本をたくさん読んでるの?」と聞かれ、私はたしか「本は好きなんですけど、読んでますと言えるほど読めてはいないんです」と答えたと思うのだが、じゅんこさんはそのまま「私はずっと本にあこがれててここで読書会をやりたかったんだけど、ちひろちゃんやらない?」と振ってくれて(そんなじゅんこさんが大好きです。)「ぜひ!」と話がまとまった。

「読書会ってなに?」とときどき聞かれるのだけれど、基本的には本が好きな人たちが集まって語り合う場だと思っている。
いちばん多いのは、それぞれのお気に入りの本を持ち寄って紹介する読書会だろう。好きな本の傾向が似ている人との出会いも面白いし、普段なかなか読まないような本と出会う面白さもある。(ビジネス書や漫画など、ある程度ジャンルを限定した会もある。)
私がはじめて参加した読書会は、1冊の本をひとりひとりが読んだ上で集まって、それぞれの感想を話し合うタイプの読書会だった。自分が読み流していた部分を深く読み込んでくる人がいたり、同じ文章でも私とは違う受け取り方をしている人がいたり、1冊の本をひとりきりで読むよりもっとずっと何倍も楽しめて本当に楽しかった。
とはいえ、「1冊の本を読みあうのはちょっとハードルが高いね」ということになり、1回目はお気に入りの本を持ち合う会にしようと決まった。
ゆっくり話ができるように人数は少なめにしたいね。
話題をより共有できるように、なにかテーマがほしいね。
話はとんとんと進んで、じゅんこさんが提案してくれた「どこかに猫の出てくる本」が第1回目のテーマになった。

当日は、ふたりの女性が来てくれた。
「どこかに猫が出てくる本」どころか、タイトルや表紙から完全に猫の本ばかり。しかも、ひとりは小説、もうひとりは絵本、そして私はエッセイと、本としてのジャンルは全く違う。こういうテーマの設定の仕方、やっぱりいいなあ。いろいろな本が集まりつつも共通項があっておもしろいなあと、本が並んだ時点ですでに私は相当楽しんでいたのだけれど、当然のように3人とも猫が好きなので、猫の話でそれはそれは盛り上がった。

飼い猫との出会い。日々の暮らし。そして、別れ。

私自身はまだ猫との別れを経験したことがないのだけれど、ちょうど「自分が猫を残して死ぬ」という状況について考えをめぐらせていたところだった。「いや、さすがに猫のほうが先でしょう」と思われるかもしれないが、人生何があるかわからない。急な病気だってあるし、事故だっていつ起こるかわからない。そもそもは「亡くなった飼い主の動画を携帯で見る猫」の動画を見てしまったのがきっかけで(猫がじっと画面を見つめた後、携帯にそっと頭を寄せて目を閉じるという静かな動画なのだけれども、静かなだけになんとも悲壮感が漂う)、「私が死んだら猫たちのことはどうしよう」と考え始めたら止まらなくなっていた。(ちょっと遠いけれど、新潟に住む妹にお願いしようと決めました。)

「人間は一生、猫にすら勝てない」とは、読書会に途中から参加してくださった猫と本を愛する男性の名言だ。私の手帳にメモが残されていたのだが、どんな文脈で出た言葉だったのかは覚えていない。しかし、あれこれと思い煩ってあがくのは人間で、猫はすべてを、死すらも受け入れているように見えると話してくれた。(「人間は弱いからこそ知恵をつけたのかもしれないですね」という話も出た。それとも知恵があるからこそ弱いのだろうか。)
たくさんの猫を見てきた人たちの言葉には、ほんの何気ないひとことにもずっしりと重みがあって、生きること、そして死ぬことについて、直接語り合ったわけではないけれども私なりに感じるところがあったのだろう。読書会が終わってみると、猫との別れを思い悩まなくなっていた。

じゅんこさんは読書会について、「人との出会いや気づきがあって、それを日常に持ち帰ることができるような場にしたい」と話してくれていた。少なくとも私にとっては、じゅんこさんが思い描いたような時間になっていたなあと思う。

次回のテーマは、「コーヒーの香りを感じる本」の予定です。たのしみ。

 

 


せっかくなので、持ってきていただいた本をご紹介。

1冊目は「旅猫リポート」。

ほんの概要を聞いただけで涙腺がゆるみきってしまった、恐ろしくも美しい本。(厳密には私は読んでいないのだけれども、出てくる人や猫の思いや風景がとてもやさしく美しいのだろうなと思いながらお話を聞きました。)猫目線の、猫と人とのロードムービー的な小説だそう。裏表紙の概要でだいたいの展開がわかってしまうのですが、なんとなく心地良い風が吹いていそうで、読んでみたくなりました。(私の覚悟が決まったら読みます。)

そして、可愛い絵本たち。

とにかく絵がかわいくて、眺めているだけでにこにこしてしまう「猫のプシュケ」(ただし読むと切ない)。私自身が長子だからか、とても直視できないほど心に刺さる「ねえ だっこして」。ここまで泣いてばかりで、猫の絵本って切ない話ばっかりか!(100万回生きた猫とか)とめそめそしていた私を癒してくれた「うきわねこ」(ものすごくいい笑顔でおかかおにぎりを食べるこねこ、えびおがかわいすぎました!)。私は普段あまり絵本は読まないのですが、やっぱりいい絵本はいくつになって読んでもおもしろい。心揺さぶられる。

私が持って行ったのは金井美恵子氏のエッセイ。

私の文章は、多分にこの方の影響を受けています。内容は毒舌辛口エッセイですが、著者は17年間共に過ごした飼い猫を亡くしたばかりで、猫の気配がすごい。たんたんとした文章の中にふいに滲む、猫との時間。いつもタイトルを「猫の一生」と間違ってしまうのだけれど(本当は「猫の一年」)、文中でも「編集者に『猫の一生』と間違えられた」というくだりがあって、やっぱり…と思う。