「ぶっちゃけ地域活性化とかどうでもいい」が信条のプロジェクト「国東日和。」がはじまりました。

国東にまつわるフリーペーパーを作ったりしていると、たまに「国東のために活動しているすごい人」だと思われてしまうことがある。(完全に誤解です。)
私は、自分が大好きな国東について知りたいし、せっかく調べたら共有したいし、できれば「私もそういうのが好き!」と言ってくれる仲間を増やしたくてフリーペーパーを作っている、ただの自己中だ。

「地域おこし」「地域活性化」を掲げて頑張っている人が、私の周りにはたくさんいる。本当に頭が下がる。
その一方で「地域活性化とか、あんまり興味ないんだよね」という一点で共感できた人がいる。今回のプロジェクト「国東日和。」の黒幕、岡野さんである。

岡野さんと私は、地域活性化に興味がないというその一点以外はほぼ真逆だ。
新潟出身なのに国東大好きな私に対して、岡野さんは国東出身だが特に国東に興味がない。(私が国東愛を語り始めると「へー」と苦笑いで相槌を打ってくれる。)
私は人の意見を聞くと常にぶれ続けてしまうのだが(国東探訪は、最初から誰の意見も聞かないというスタイルで作っています。)、岡野さんは自分がこだわっている部分については誰がなんと言おうとこだわりを貫き通す。とはいえ、こだわっていない部分についてのこだわらなさもものすごい。そして、おそらく枠組みという存在が苦手な人だ。岡野さんは真っ白いキャンバスにノープランで絵を描き始められるタイプの人で、私はキャンバスに補助線を入れた上で定石を踏まえて構成したいタイプなのだと思う。

考え方も視点も背景も違うので、ふたりで打ち合わせをしているとお互いに何を言っているのか理解できないことがある。「すみません、今の話が全くわからなかったんですけど、もう一回説明してもらっていいですか?」と聞いたのは一度ではない。しかし、それこそが岡野さんと何かを作り上げる面白さで、最近では何ができるのかわからないまま岡野さんの指示に従うことにしている。毎回必ず私の想像をはるかに超えた素敵なものができあがるからだ。

そんなこんなで、無謀にもトキハ本店5階で国東日和。による催事「くにさき手仕事展」が始まった。
「国東日和。ってなんですか?」と聞かれることがある。むしろ、催事に参加してくださっている作家さんたちには、なんだかわからないまま参加してくれている人もいる。(すみません…。)
私の考える「国東日和。」とは、岡野さんと私が素敵だと思う人を「ほら!かっこいいでしょ!」と周りに好き放題自慢するプロジェクトである。
好きなものをシェアして共感してもらえたら嬉しいし、こんなよくわからない催事に快く参加してくれた参加者さんも喜んでくれたらもっと嬉しい。それが「国東日和。」なのだと思う。

結局、岡野さんと私が興味があるのは、作家さんや生産者さんひとりひとりなのだ。地域とは、いろんな人がたくさん集まって構成している単位だから、私には認識しづらい。木を見るか森を見るかというときに「国東日和。」は木を見ている。「森とか大きすぎてよくわからないしどうでもいい」と思っているけれど、木々一本一本がすくすくと成長すればいずれは森全体が大きくなっていくだろう。そういう意味では、長い目で見たら地域活性化なのかもしれない(とか言ってしまうあたりが私のあざとさで、岡野さんにない部分なのではないかと思う)。

2017/6/8〜6/14 トキハ本店5階にて「くにさき手仕事展」開催中。
(催事は明日までです。)

夢は叶えるものではなくて、出会うもの。

クラウドファンディングのプロジェクトを立てたことから(参考記事:クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。)、「国東探訪」の取材を受けるという棚ぼたに恵まれた。

その中で「これからどんな暮らしをしていきたいですか?」という質問を受けた。一生懸命考えて「今が最高に楽しいので、こんな感じだったらいいなと思います」というようなことを(たぶん)答えたところ、「夢を叶えていて素晴らしいですね」とまとめられた。

その瞬間、ものすごい違和感を覚えた。
私はこんな暮らしを夢見ていたことがあっただろうか。

将来の夢。

夢ってなんだろう。
そういえば、私はあまり夢を持った記憶がない。
(忘れているだけという可能性がなくもないが、夢を叶えるために何かをがんばったという記憶がない。)

小学生の頃に誰もが「将来の夢」を書かされたと思うのだけれど、低学年の頃は「バレエを習っているからとりあえずバレリーナって書いておけばいいだろう」、高学年になってさすがにバレリーナは厳しいなと気づいてからは「両親が教師だから教師って書いておけばいいだろう」で切り抜けてきた。
なんの目的もなく留学してしまったり、専門学校も半年で中退してしまったり、ようやく税理士をめざすことにしたと思ったら国東に来てしまって大学院も中退したりと、真剣に何かひとつのことに取り組むということができないまま今もふらふらしている。

理想の暮らし。

私はどんな暮らしがしたいのか。
地域おこし協力隊として国東市の移住支援に関わっていたときには「緑の多い土地で家庭菜園を営みながらゆっくり暮らしたくて、国東を選びました」なんて話もよく聞いた。

一方の私といえば、なんとなく住んでみたくて国東に来て、なんだかすごく雰囲気が気に入って種田に落ち着いているけれど、べつに人里離れて暮らしたかったわけではない。
そもそも新潟を離れたいと思っていたわけでもないし、移住を考えたこともなく、新潟に骨を埋めるつもりで生きていた。
種田に来てからは猫を飼い始めて、最近2匹に増えたばかりだけれども、そもそも猫が特別好きというわけではなかったし、人生において猫を飼いたいと思ったことも特になかった。(今ではすっかり猫好きです。)
むしろ、私は本当はコンビニが大好きで、カップラーメンの新商品や季節限定のコンビニスイーツに目がないし、基本的に怠惰なのでテレビを見始めると何時間も見てしまう。しかし、コンビニから遠く離れた土地に、テレビもなく暮らしている。

そして、私は今の暮らしがとてもとても気に入っている。


夢を持って、それを叶えるために努力する。
それはとても美しく、素晴らしいことだ。
(できることなら、私もそんなふうに生きたかった。)

しかし、なんの夢もなくても、毎日をただただ過ごしているだけでも、「今あるものだけで十分にしあわせ」と思える場所にたどり着くこともある。

夢を見なければいけない。
目標を持たなければいけない。
そんなふうに思ってはいないだろうか。
少なくとも私は、自分の生き方に対してずっと引け目を感じていた。

夢もない。目標もない。
「国東探訪」も2018年度はどうするのか、まだ考えていない。
言葉にするとただのだめ人間だとばれてしまうけれど、しかし未だかつてないほど自分の中で「これでいいのだ」感が高まっている。

「今が最高に楽しい」と言っても、ずっとこのままの状態でいたいとは思っていない。
この先どうなるかわからないけれど、それでもいつもその時が最高だと思える日々を送ること。それは、夢でもなく目標でもなく、すでに私の手の中にあるような気がしている。

猫は鏡である。

ひさしぶりにやられた。

パソコンに向かっていると、りゅう(茶トラ♀1歳)が「遊ぼう」とにゃあにゃあ声をかけてきた。「ちょっと待って。あと3件だけ返信するから、もうちょっとだけ待ってて」と後回しにしていたら、ソファの上でなんだかもそもそしている。よく見たら、出しっぱなしにしていたニットの上にいたしていた。

 
抗議の粗相である。
 

おーーーーーーーーーーーい。
え、ちょっと、
おーーーーーーーーーーーい。
やめてくださいよそういうの。
ていうか、そのニット高かったんですけど。
(出しっぱなしだったけど。)

しばし呆然とするもなんとか気を取り直して、トイレはここではないということをこんこんと(無駄だと思いつつ)言い聞かせながら、りゅうをトイレに放り込んだ。りゅうはりゅうで、にゃむにゃむ何かを訴えている。

最近いくつかプロジェクトが並行して動いていて、慌ただしく過ごしている。たしかに、昨日も1日留守にしていた。しかし、以前にも粗相事件があったので、りゅうを寂しがらせないように気をつけているつもりだ。昨日も帰ってきてから「遊んで」コールに応えて鬼ごっこにも付き合った。
それなのに、なぜだ。いったい何がご不満だというんですか。
(基本的に猫に対しては「さん」付けで敬語です。)

トイレから脱出し、何食わぬ顔で横を通り過ぎようとするりゅうを捕獲して、膝の上に乗せた。
すっかりあたたかくなったからか、最近はあまりくっついてこない。
どうせすぐ降りるだろうと半分嫌がらせのつもりだったのに(半分は私のもふもふ欲を満たすため)、りゅうは香箱座りで落ち着き出してしまった。

 
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縁側に、私と猫。

猫を膝に乗せているので、動けない。
スマホも何も持っていない。

手持ち無沙汰なので、りゅうをなでることにした。りゅうは一度起き上がって私の膝上を掘り、丁寧に座り心地を整えてからまた手足をしまって座った。

こんなことしてる場合じゃないんだけどなあ。

そう思いながらも、他にすることもないので、りゅうをなでる。
外は雨。少し開いた窓から、ひんやりとした空気が入ってくる。
膝上では猫がごろごろごろごろ鳴いている。

そういえば最近何かひとつに集中することがなかったな、とふと思った。
こっちの文章を書いたら、そっちの資料を印刷してチェックして、別件の連絡をする。ごはんを食べながら本を読んで、お風呂に入りながら本を読んで、車の移動中にはオーディオブック。
りゅうと遊ぶのも、ごはんを作る合間やお湯を沸かしてコーヒーを淹れる途中だった。

りゅうをなでることに意識を向ける。

ふと、海辺のカフェで友達とただただのんびりしたり、縁側でお茶をいただいたりした記憶が蘇った。思い出しただけで、なんだかうふふと心があたたかくなる時間。
そういえば、打ち合わせや取材じゃなくて、ただ会うためだけに人と会う時間がすっかり減っているんじゃないか…。

そう気づいた瞬間、近くで鳥が鳴いて、りゅうは膝から降りてすたすたと行ってしまった。

 
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効率的であることとか、メソッドとか、フレームワークとか、そんなことに捕われすぎていたのかもしれない。そんなことを思った。
私は基本的に自信がないのだ。だから、枠組みを求める。きちんとしていなければいけないし、完璧でなければいけない。実際にはきちんともしていないし完璧でもないのだけれど、だめな自分を受け入れきれてない。だから、足りていないと思う部分を埋めようとしてしまう。
ここ数年でだいぶ手放してきたつもりだったけれども、慌ただしさで見えなくなっていたようだ。

なにか大切なことを忘れてるんじゃないの?
一言も発することなく、自分自身を省みる時間をくれた猫。
ねえ、あなたもしかして神さまなんじゃないの?なんてことをちょっと考えたけれど、粗相のにおいで我に返った。

(余談だが、ニットは断捨離することに決めた。)