0泊3日で和歌山に来てみた。

和歌山県の山間に、とても素敵なお香を作っている方がいる。
欲しいときには送ってもらっているのだけれど、今回和歌山でお香作りのワークショップを開催するという情報が入った。結論からいうと、スケジュールの合間を縫って、和歌山まで来てしまった。

ありがたいことに行動力があると時折褒めていただくのだけれど、実際のところ私はとてもものぐさで、行動派からは程遠い。今回も、ワークショップに行きたい気持ちと不合理(面倒ともいう)を訴える理性の間で、約1か月に渡る攻防があった。


【1か月前】

感情「えー!このワークショップ絶対行く!!!」
理性「和歌山だよ」
感情「この時期1週間くらい空いてるから、ついでに熊野や飛鳥にも行けるよ!」
理性「こないだ和歌山まで車で行ったとき結構遠かったし、私は行きたくない。今度またどこかでワークショップやってくれるかもしれないし、その時にしようよ」
感情「行きます!(手帳に予定を記入)」
理性「…ちょっと保留で」

感情が納得しようとしないので、和歌山までの道連れを探してみたけれどなかなかいない。面倒だなあと思いつつずるずると保留しているうちに、前日と翌日に予定が入った。
ついでの観光ができないのなら、さすがに感情も諦めるだろう。和歌山は遠すぎたのだ。残念な気持ちはあるけれど、これにて一件落着…と思っていた。


【ワークショップ前日】

無防備に手帳を開いたらちゃっかり予定が記入されていたため、ワークショップに行きたい気持ちが復活してしまった。

感情「明日だね!楽しみ!」
理性「ちょっと待って、よく考えて。今日も明後日も朝から丸1日予定が入ってるよ」
感情「明日だけちょうど空いてるね!ラッキーだね!」
理性「会場まで、高速乗っても10時間半かかるんだよ」
感情「今日の用事が終わってそのまま行ったら間に合うね!すごい!ちょうどいいね!」
理性「次の日も予定あるから日帰りだよ」
感情「楽しみだね!」
理性「…」

なんだか感情に押し切られてしまい、先方に「急ですがもしまだ席に余裕があったら参加したいです」と連絡を入れて、車に着替えを積んで家を出た。


山口から広島までがやたらと遠くて一瞬後悔したが、そこから先は以外と早かった。そしてワークショップを終えた今、やっぱり来て良かったと思っている。なんの知識もなく、気になった材料だけで調合したお香は、とてもしっくりくる香りだった。
ここまで来たら久しぶりに会いたい人もいるし、寄りたい神社もある。

最近、心に仔犬を飼っているように感じることがある。
無邪気で、それ故に残酷なところもあるが、私に本当に必要なものを見抜いている。ここ掘れワンワンといったところか。今回は彼に引っ張られるように連れてきてもらったような気がする。
そして、この仔犬をうまく飼い慣らせているのがきちんとした大人なのかもしれないなあと思う。

シャスタから種田に戻ってきたら、世界が変わっていた。

カリフォルニア北部にそびえ立つシャスタ山の麓、マウントシャスタシティに滞在すること1か月。
何度かブログを更新しようと思ったものの何をどう書いたらわからないまま一月が経ち、そのまま国東に戻ってきてしまった。友人たちに会い「どうだった?」と聞かれても「なんだかすごかった」としか伝えられず、正直まったく消化しきれていない。それでも種田で数日過ごして少し落ち着いてきて、不意に自分の中で何かが完全に変わってしまったことに気がついた。


【アナスタシアとの出会い】

シャスタに行く前に、長崎県佐世保市で行われた無農薬・無肥料の農業実習に参加した(参考記事:佐世保に土づくりの農業実習に行った。)。この時に薦められた本が「アナスタシア」。

ロシア人の著者が、シベリアのタイガにたったひとりで暮らす女性アナスタシアと出会い、タイガの森の中で数日をともに過ごした記録だそうだ。(「だそうだ」というのは、この本の内容は私たちが普段認識している世界の姿とは遥かにかけ離れていて、これを真実だと思うのもフィクションだと思うのも読者に委ねられていることによる。)

農業実習で、「害虫にどう対応するか」という質問に対し「害虫というものがそもそも存在しない」という話になった。なぜか。虫は本来地球において分解者であり、弱ってしまった個体を分解し浄化する、「ナウシカ」でいう腐海の役割を担っているからだ。このとき、講師は「全部『アナスタシア』に書いてある」と言った。
(一見健全な野菜も、画一化された種から生まれ同じサイズに育てられている。人間に置き換えて考えてみたらこれは明らかに不自然な状態で、いい土で自由にのびのびと育った丈夫な野菜には虫はつきにくいというデータも見せてもらった。)(これは虫の役割についての話であり、慣行栽培を否定するものではない。慣行栽培は充分な収穫を比較的安定して得ることができ、効率的に各地に新鮮な野菜を届けることのできるシステムだと私は思っている。)

アナスタシアは、森の中で家も持たずに動物たちと暮らしている。といっても、狼少女のような暮らしではない。他者の意識とつながることができ、都市部での暮らしや最先端の技術も知っているし、過去についても知ることができる。そして未来を描き、実現する力を持っている。アナスタシアは「愛」について語り、植物の持つ偉大な力について話す。そして、物事の枝葉ではなく、本質に目を向けることを説く。


【畑を裸足で歩く】

Amazonで買ったはいいもののまだ目を通していなかったこの本を読みながら、私はアメリカに向かった。そこで何があったかについては書き尽くせないので結果だけ書くと、私は今までずっと長靴で入っていた自分の畑に裸足で入るようになった。(これはアナスタシアが薦めている。)

まだ日の昇らない畑はひんやりと肌寒くて、空には月が浮かんでいる。一歩進むたび、足先で朝露が弾けるのがわかる。地面はほのあたたかくて、土も、草も、足の裏にあたる感触はとても柔らかい。こうして裸足で入ってみると、土や苗や、雑草や虫でさえも、自分と同じものだという感覚が生まれる。
すべての苗に声をかけながら歩いて、新しい花が開いていたら立ち止まる。雑草は抜いて、マルチとして苗の根元に横たえる。そうして畑でしばらく時間を過ごしていると、太陽が昇ってくる。太陽の光が当たると、空気がどんどんあたたまってくるのが伝わる。

この一体化する感覚はとても気持ちが良くて、今朝は雨が降っていたので一時サンダルで畑に行ったものの、なんだか物足りなくてもう一度裸足で行ってしまったほど。
IMG_2591早朝の月。
IMG_2592朝露を乗せた里芋の葉が、風に揺れる。
IMG_2604庭の苔。まるでじゅうたんのようにふかふか。


今思えば、小さい頃からあまり土に触れたことのない私にとって、土は汚いもので、虫は怖いものだった。野菜を育てるのは面白そうだと思ってはじめたけれど、その時点では私と畑は全く異質の存在だった。
大地と、宇宙と、すべての生きとし生けるものはつながっている。頭ではまだよくわかっていないけれど、感覚がそう言っている。それはきっととても素敵なことで、だから私は足裏に大地を感じるたびにこんなにも幸せを感じるのだ。

種田に引っ越す前に住んでいた家は庭も畑もなく、とてもこんな変化は体験できなかっただろう。そう思うと、シャスタには行くべきタイミングで行けたのだし、種田にはやはり住むべくして住んでいるのではないか。
自分の中で、何かひとつ腑に落ちたように感じている。

「種田でひとり暮らし」は本当はひとり暮らしではないのではないかと考えた。

サンフランシスコについた。
明日から1か月、カリフォルニアのマウントシャスタにいます。


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先週は6日間ほど留守にして、バリに行っていた。
「しばらく出かけるんです」と大家さんに伝えたところ、「草刈っちょってもいいかね」「鉢に水やっちょくけん、外置いちょきよ」「毎日は来れんけどいいやろ?」と言われ、そんなにしていただいていいんですか…?と思いつつ、よろしくお願いしますと伝えて出かけた。

種田に帰ってくると、庭の草は綺麗に刈られていて、勝手口の外の水道に長いホースが取付けてあった。玄関先に並べてあるハーブの鉢に水をあげやすいようにつけてくれたようだ。日差しも強くなってきて多少黄色くなった葉もあるが、全員元気に育っていた。ありがたい。
実はうちはめだか付き物件(!)で、玄関外の鉢に6匹のめだかが暮らしているのだが、こちらも全員元気だった。
家に入ると、いつも玄関脇の郵便差し込み口の下にばらばらと落ちている郵便物が、靴箱の上にきちんと置かれていて、その隣には新しいめだかの餌のパックが並んでいた。

1か月アメリカに行くということは以前から伝えていたのだけれど、「明日から行ってきます」というと大家さんだけではなく、種田の班長さんも心配してくれた。種田の神社に「出かけてきます」とお参りしてから家を出た。


今日はサンフランシスコ泊。
部屋にひとりであることはいつもと変わらないはずなのに、なぜだか強烈な寂しさに襲われている。ホテルの外から車の行き交う音やクラクション、人々の話し声が聞こえてくるけれど、それがよりひとりであることを意識させるのかもしれない。

同時に、種田では本当の意味でひとりではなかったのではないかと考えている。
よく「こんなところにひとりで暮らしていて寂しくないのか」と聞かれるが、寂しいと思ったことがただの一度もない。それは、私がひとりで過ごすこと自体を楽しんでいるからだと思っていたのだが、あの場所には信頼してすべてを委ねられる大家さんやご近所さんたちがいる。家のハーブやめだか、最近では畑の土や植えたばかりの苗たちも、きっとそこにただあるのではなくて、私とともに生き、暮らしているのだ。

1日目にして早くもホームシックだ。
だいじょうぶか、私。