過去と現在が同時に存在しているとすると、未来も今ここにあるんじゃないだろうか。

月に2回ほど、中学生に英語を教える講師をすることになった。
講師はふたりいるので、私はどちらかというとサポートなのだけれど、初々しいこどもたちに「先生」とか呼ばれるとどうにもこそばゆい。私は学校教育において英語が得意だったことがないので、初日に「私が英語を教えることになるなんてびっくりしてます」とかなんとか挨拶したのだけれど、その後家に帰ってから突然、大学生のときに中学・高校の英語の教員免許を取ろうとしていたことを思い出した。

私の両親は、教員だった。
小学生くらいのときに「将来の夢」なんて作文を書かされたりするけれど、夢なんて特になかったので「(両親のような)学校の先生になりたいです」と適当なことを書いていた。そのあとも特にやりたいことがないまま、「センター試験を受けなくていい」という理由で受験した大学にひっかかって進学したはいいものの、ついに将来を考えなくてはいけなくなって、「教員以外の仕事のイメージが全くわかない」という理由で教員免許を取るべく単位修得に励んだ。大学3年間で単位は集まったのだけれど、「さて、教育実習に行こう」と思ったら、その大学には「成績の悪い学生は教育実習には行かせません」という規定があり(とってもいい規定だと思います。)、常に単位ぎりぎりで乗り切ってきた私は教育実習に行けず、もちろん教員になることはできず、なんだかいろいろあって今ここ国東にいる。

教員になるのが夢だったとは思わないし、むしろなれなくて良かったと心から思うのだけれど、それでも一度は目指した職業に関わっていることに(自分自身すっかり忘れていたとはいえ)感慨を覚えずにはいられなかった。

でも、国東ってそういう場所だよなあとも思う。

昔「いつかこんなことができたらいいなあ」と思ったお店を本当に作ってしまうとか(Atelier素家さん)、「カポエイラを習いたい」と思いつつもずっと機会がなかったのに突如国東にカポエイラ同好会ができてしまうとか、いつかと思っていたことが現実になるという話はもはや「国東あるある」なんじゃないか。

昨日は、ピタゴラスイッチの曲で有名な「栗コーダーカルテット」のライブが日出町(日出町を国東に入れていいのかという議論はさておき)のカフェ、kamenosさんであった。
私は10年以上前に買ったアルバムが大好きで、今でも聞いているし、心がささくれたときにはいつも助けてもらっていた。あのあたたかな音色を生で聞きながら、当時の浅はかなりに一生懸命生きていた自分と出会ったような感覚を覚えた。

過去と現在と未来は別のものだと思っているけれど、本当はすべて同時に存在するのではないか。クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」では、ブラックホールの中が過去につながっていたけれど、国東には過去と現在の境界が薄くなる瞬間がある。「思い出す」とか「がんばって実現する」というような過去からつながる流れとは全く別の、「過去のある瞬間と現在がピンポイントでつながる」という感覚。

最近はちょっと慣れてきて、不思議だと思っても「まあ、国東だしな」で納得してしまう自分もいる。

読みやすい文章の書き方をハリウッドに学ぶ。

最近、文章を褒めていただくことが増えた。
しかし、私の文章が読みやすいのだとしたら、それは私に才能があるからではない。ただのスキルだ。つまり、誰にでも書ける。

ブログを書くときは、大学時代に叩き込まれたアメリカ式の論文の書き方、「国東探訪」(参考:国東探訪について)を作るときは、ハリウッド式の脚本術をベースにしている。
特に「国東探訪」は、読んでいて楽しいものにしたいので、物語的な起承転結を意識している。

私の教科書はこちら。(現在は売っていないようですが、似たような本がいろいろ出ています。たぶん基本はどれも同じ。)

合理的なアメリカらしく、ハリウッドでは脚本の書き方もマニュアル化されているらしい。これを知っていると、文章に限らず、人前でまとまった内容を話さなければいけないときにも使える。また、映画を鑑賞するときに、ストーリー構成という視点から見るのも楽しい。

ここでは、いろいろと便利なハリウッド式の脚本術を、大まかに3つのステップに分けてご紹介したい。

1.素材を集める

文章を書く作業は、実際に書き始める前からすでに始まっている。

人の興味を引く素材をどれだけ集められるかは、面白い文章の大切な構成要素のひとつだ。どれだけドラマティックな構成にしても、書いてある内容がものすごく普通(もしくはありがち)であれば、ドラマティックにはならない。とはいえ、変わったネタやエピソードである必要はない。「自分独自の視点」というのは十分に面白さだろう。

物語を書くならば、まずはキャラクターの設定や具体的なエピソードをたくさん作る。「国東探訪」であれば、資料やデータ、写真などを集める。
文章として形になる分の、少なくとも倍は集めたい。

集めた素材は、整理整頓しておくと後が楽だ。
PCでの作業なら、検索しやすいファイル名をつけたり、同じフォルダにまとめる。アナログ派ならば、ふせんに書き出しておく。
私はふせんを愛用している。全体を見渡すのが簡単だし、次の作業で並べ替えるのにも便利だからだ。

2.並べる

次に、集めた素材を並べ替える。
基本的には、「起」「承」「転」「結」で全体量を4分割する。
1時間の講演原稿であれば15分ずつだし、1000字の文章なら250字が目安だ。(もちろんぴったりである必要はない。あくまで目安だ。)

一度、ハリウッドの脚本の話に戻ろう。
2時間程度の映画を一本思い浮かべてほしい。

 1:0分〜 物語の背景の紹介
   (場所、年代、登場人物、世界の前提など)
 2:30分 何かが起こって物語が動き始める
 3:1時間 「転」それまでの常識がひっくり返る
 4:1時間半 最後の戦い・クライマックスのはじまり
   エンディング

改めて映画を見ると、実に多くの映画がこんな構成になっている。
スター・ウォーズのエピソード4でいうと、

 1:姫、ドロイド、ダース・ベイダー、ルーク、オビ=ワン登場
 2:30分 姫のメッセージを見る→旅立ちへ
 3:1時間 デス・スターに出会う→これ倒せるの…?
 4:1時間半 オビ=ワンが死ぬ→破壊ミッションへ
   勝利

こんなふうに物語が動いている。
ちなみに、旧三部作(エピソード4〜6)の真ん中では、敵だと思っていたあの人の重大な秘密が明らかになるし(見てない人にも見て欲しいのであえて伏せます。)、新旧三部作(エピソード1〜6)の真ん中では、アナキンが暗黒面に落ちてしまう。(この視点で見ると、新旧三部作の主人公は完全にアナキンだなあと思う。)
ジョージ・ルーカスは、神話の構成を熱心に学んでエピソード4の脚本を書き上げたことで有名だが、物語全体も入れ子構造になっているのがわかる。

「起」「承」「転」「結」の中でも、特に真ん中の「転」はとても大事だ。
もう少し例を挙げてみよう。「転」では、こんなことが起きたりする。

 ・殺人事件の犯人だと思われていた人物が、真犯人によって殺される
 ・敵を本気で倒しに行ったら、予想外の反撃を食らって逆に大ダメージ
 ・味方のひとりが、実は黒幕だった

今までAに向かってすべてが進んでいたのに、Aが成立しないということが明らかになる。それによって、強制的に方向転換を迫られるタイミングなのだ。(伝わるだろうか。)
これによって、盛り上がりが生まれ、リズムができる。

国東探訪では、「この神社はこんな謂れがある。〜(ここで関連資料の紹介など)〜しかし、それだけでは説明のつかないことがある」というように、真ん中くらいに、それまでの話をひっくり返すような謎をはさみこむようにしている。
「転」から作っているといっても過言ではない。

3.捨てる

最初に素材を集めることが大切だと言ったが、それと同じくらい、集めた素材を捨てることが大切だ。
どんなに気に入っているエピソードであっても、物語の軸がぼやけるものは捨てる。捨てきれなくて、主人公の性格や動機がぼやけてしまったり、物語が混乱したりしてしまう映画もよくある。

わかりやすくするためには、仕方ないのだ。
涙を呑んで捨てよう。

国東探訪では、本文に盛り込めなかった面白い話を、写真のキャプションとしてなるべくリサイクルしている。

最後に

以上、3ステップを紹介した。

「ハリウッド式」と大胆に銘打ったが、私自身はそれほど厳密に運用しているわけではない。改めて国東探訪を読み直したら、全く乗っ取っていない可能性もあるなと思いつつこの記事を書いている。書き始めるときは常にこの構成どおりに組み立てるのだが、国東探訪は4000字程度なので、そんなに盛り上げなくても読み進めてもらいやすい。そういう場合は、最終稿にたどり着く前に構成自体を捨ててしまう。
機械的に構成を立てられるのはとても楽だし、何よりも実際に「わかりやすい」「内容の割にさらっと読める」とお褒めの言葉をいただいている。さすがハリウッド。

何かの折に役立ててもらえれば幸いである。

クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。

クラウドファンディングのプロジェクトを立ててみた。

国東愛が高じすぎて、自腹で印刷してただで配布するという、ドMフリーペーパー「国東探訪」を作っている。(「国東探訪」について
しかし「これではやっていけない」とようやく気づき、悩んだ末、2017年度はクラウドファンディングで印刷費を支援してもらえないだろうかと考えてプロジェクトを立てるに至った。


結果。

なんと、プロジェクト開始3日で成立した。(ありがとうございます!!!)

達成後も支援してくださる方がいて、予想外に増刷までできることになった。今までは200部しか印刷していなかったので、なるべく節約しながら配っていたが、現在の支援額から逆算すると500部刷れる。
2.5倍である。
まるで夢のようだ。(ありがとうございます!!!!!)


葛藤。

さあプロジェクトを公開しよう!という瞬間、「クラウドファンディングをしないほうがいい理由」がまるで走馬灯のように頭を駆け巡った。
「100万円レベルのプロジェクトが並ぶ中、6万8千円ってどうなの」にはじまり、「集まるわけないよ」「それくらい自分で出せばいいじゃん」「甘えてるんじゃないの?」と心の声に罵倒された。

今思うと、私は恥ずかしかったし、怖かったのだ。

クラウドファンディングというのは、要するに「私は(金銭的な意味で)困っているので、誰か助けてください」と求めることだ。
他のプロジェクトを見ていると、地域を盛り上げたいとか、新しい場所を創りたいとか、どれもきらきらと輝いて見える。
一方の私はといえば、事業規模の小ささもさることながら、新規事業ですらない。「ノープランではじめたら困ってしまったので、助けてください」と言っているに等しい。図々しいにも程がある。

私は基本的に見栄っ張りなので、きちんとしていると思われたい。
「やめておこうかな」と一瞬考えた。


恐怖の先へ進む。

私が「これはやりたくないな」と思うときには2種類ある。
ひとつは、身体の奥底から警鐘が響いてくるとき。
理屈の上ではどんなに素晴らしいプランであっても、「なんとなくこれはやばい」と感じることがある。そしてその勘は大抵当たる。
もうひとつは、「怖い」と感じるときである。

人間は、未知のものに対して恐怖を覚える生き物だそうだ。
「怖い」と感じるときは、既知の領域から踏み出そうとしているとき。
だから「わー、なんかよくわかんないけどどうしよう!」みたいなときは、とりあえず進むようにしている。

「やめておこうか」と頭に浮かんだとき、同時に「あ、私は怖がってるな」と感じた。
怖いなら、行くしかない。
不安をはじめとするすべての後ろ向きな気持ちを一瞬だけ封印して、プロジェクトを公開した。

結論から言えば、進んで正解だった。


クラウドファンディングで私が得たもの。

クラウドファンディングは資金を集めるための方法だが、得られたのは金銭的な支援だけではない。
「じゃあ、それはなんなのか?」と聞かれると、自分の中でもまだまとまっていない。

強いて言うなら、「生きていてもいいんだよ」と自分の存在を肯定されたときの感覚に似ている気がする。(ということは、ただの承認欲求かもしれない。)

今思えば、私にとって「国東探訪」というのは、完全に閉じた世界だった。
「面白かった」とか「楽しみにしてる」と声をかけてもらうことはあったけれども、頭では理解していても心には届いていなくて、常に「私の、私による、私のためのフリーペーパー」だったように思う。

今回、本当に、いろいろな立場の人がいろいろな理由で支援をしてくれたことに、それはもう本当に驚いていて、なんというか、海外ドラマで棺桶に入れられたまま墓地に埋められてしまって一生懸命外に向けて叫んでいたら助けが来てくれて「あ、私の声をちゃんと聞いてくれた人がいたんだ」みたいな、そんな気持ちです。(これを読んだ人にどう伝わるのか想像しきれてないですが、私の心が驚きと感謝と生きる歓びに満ち溢れています。)
何だかわからないなりに、とてもとても大切なことに気がつくことができたという確信があるのだけれど、それがなんなのかはこれから見えてくるのかもしれない。


古代ロマンと謎があふれる国東半島のフリーペーパー「国東探訪」を継続したい