夢は叶えるものではなくて、出会うもの。

クラウドファンディングのプロジェクトを立てたことから(参考記事:クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。)、「国東探訪」の取材を受けるという棚ぼたに恵まれた。

その中で「これからどんな暮らしをしていきたいですか?」という質問を受けた。一生懸命考えて「今が最高に楽しいので、こんな感じだったらいいなと思います」というようなことを(たぶん)答えたところ、「夢を叶えていて素晴らしいですね」とまとめられた。

その瞬間、ものすごい違和感を覚えた。
私はこんな暮らしを夢見ていたことがあっただろうか。

将来の夢。

夢ってなんだろう。
そういえば、私はあまり夢を持った記憶がない。
(忘れているだけという可能性がなくもないが、夢を叶えるために何かをがんばったという記憶がない。)

小学生の頃に誰もが「将来の夢」を書かされたと思うのだけれど、低学年の頃は「バレエを習っているからとりあえずバレリーナって書いておけばいいだろう」、高学年になってさすがにバレリーナは厳しいなと気づいてからは「両親が教師だから教師って書いておけばいいだろう」で切り抜けてきた。
なんの目的もなく留学してしまったり、専門学校も半年で中退してしまったり、ようやく税理士をめざすことにしたと思ったら国東に来てしまって大学院も中退したりと、真剣に何かひとつのことに取り組むということができないまま今もふらふらしている。

理想の暮らし。

私はどんな暮らしがしたいのか。
地域おこし協力隊として国東市の移住支援に関わっていたときには「緑の多い土地で家庭菜園を営みながらゆっくり暮らしたくて、国東を選びました」なんて話もよく聞いた。

一方の私といえば、なんとなく住んでみたくて国東に来て、なんだかすごく雰囲気が気に入って種田に落ち着いているけれど、べつに人里離れて暮らしたかったわけではない。
そもそも新潟を離れたいと思っていたわけでもないし、移住を考えたこともなく、新潟に骨を埋めるつもりで生きていた。
種田に来てからは猫を飼い始めて、最近2匹に増えたばかりだけれども、そもそも猫が特別好きというわけではなかったし、人生において猫を飼いたいと思ったことも特になかった。(今ではすっかり猫好きです。)
むしろ、私は本当はコンビニが大好きで、カップラーメンの新商品や季節限定のコンビニスイーツに目がないし、基本的に怠惰なのでテレビを見始めると何時間も見てしまう。しかし、コンビニから遠く離れた土地に、テレビもなく暮らしている。

そして、私は今の暮らしがとてもとても気に入っている。


夢を持って、それを叶えるために努力する。
それはとても美しく、素晴らしいことだ。
(できることなら、私もそんなふうに生きたかった。)

しかし、なんの夢もなくても、毎日をただただ過ごしているだけでも、「今あるものだけで十分にしあわせ」と思える場所にたどり着くこともある。

夢を見なければいけない。
目標を持たなければいけない。
そんなふうに思ってはいないだろうか。
少なくとも私は、自分の生き方に対してずっと引け目を感じていた。

夢もない。目標もない。
「国東探訪」も2018年度はどうするのか、まだ考えていない。
言葉にするとただのだめ人間だとばれてしまうけれど、しかし未だかつてないほど自分の中で「これでいいのだ」感が高まっている。

「今が最高に楽しい」と言っても、ずっとこのままの状態でいたいとは思っていない。
この先どうなるかわからないけれど、それでもいつもその時が最高だと思える日々を送ること。それは、夢でもなく目標でもなく、すでに私の手の中にあるような気がしている。

猫は鏡である。

ひさしぶりにやられた。

パソコンに向かっていると、りゅう(茶トラ♀1歳)が「遊ぼう」とにゃあにゃあ声をかけてきた。「ちょっと待って。あと3件だけ返信するから、もうちょっとだけ待ってて」と後回しにしていたら、ソファの上でなんだかもそもそしている。よく見たら、出しっぱなしにしていたニットの上にいたしていた。

 
抗議の粗相である。
 

おーーーーーーーーーーーい。
え、ちょっと、
おーーーーーーーーーーーい。
やめてくださいよそういうの。
ていうか、そのニット高かったんですけど。
(出しっぱなしだったけど。)

しばし呆然とするもなんとか気を取り直して、トイレはここではないということをこんこんと(無駄だと思いつつ)言い聞かせながら、りゅうをトイレに放り込んだ。りゅうはりゅうで、にゃむにゃむ何かを訴えている。

最近いくつかプロジェクトが並行して動いていて、慌ただしく過ごしている。たしかに、昨日も1日留守にしていた。しかし、以前にも粗相事件があったので、りゅうを寂しがらせないように気をつけているつもりだ。昨日も帰ってきてから「遊んで」コールに応えて鬼ごっこにも付き合った。
それなのに、なぜだ。いったい何がご不満だというんですか。
(基本的に猫に対しては「さん」付けで敬語です。)

トイレから脱出し、何食わぬ顔で横を通り過ぎようとするりゅうを捕獲して、膝の上に乗せた。
すっかりあたたかくなったからか、最近はあまりくっついてこない。
どうせすぐ降りるだろうと半分嫌がらせのつもりだったのに(半分は私のもふもふ欲を満たすため)、りゅうは香箱座りで落ち着き出してしまった。

 
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縁側に、私と猫。

猫を膝に乗せているので、動けない。
スマホも何も持っていない。

手持ち無沙汰なので、りゅうをなでることにした。りゅうは一度起き上がって私の膝上を掘り、丁寧に座り心地を整えてからまた手足をしまって座った。

こんなことしてる場合じゃないんだけどなあ。

そう思いながらも、他にすることもないので、りゅうをなでる。
外は雨。少し開いた窓から、ひんやりとした空気が入ってくる。
膝上では猫がごろごろごろごろ鳴いている。

そういえば最近何かひとつに集中することがなかったな、とふと思った。
こっちの文章を書いたら、そっちの資料を印刷してチェックして、別件の連絡をする。ごはんを食べながら本を読んで、お風呂に入りながら本を読んで、車の移動中にはオーディオブック。
りゅうと遊ぶのも、ごはんを作る合間やお湯を沸かしてコーヒーを淹れる途中だった。

りゅうをなでることに意識を向ける。

ふと、海辺のカフェで友達とただただのんびりしたり、縁側でお茶をいただいたりした記憶が蘇った。思い出しただけで、なんだかうふふと心があたたかくなる時間。
そういえば、打ち合わせや取材じゃなくて、ただ会うためだけに人と会う時間がすっかり減っているんじゃないか…。

そう気づいた瞬間、近くで鳥が鳴いて、りゅうは膝から降りてすたすたと行ってしまった。

 
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効率的であることとか、メソッドとか、フレームワークとか、そんなことに捕われすぎていたのかもしれない。そんなことを思った。
私は基本的に自信がないのだ。だから、枠組みを求める。きちんとしていなければいけないし、完璧でなければいけない。実際にはきちんともしていないし完璧でもないのだけれど、だめな自分を受け入れきれてない。だから、足りていないと思う部分を埋めようとしてしまう。
ここ数年でだいぶ手放してきたつもりだったけれども、慌ただしさで見えなくなっていたようだ。

なにか大切なことを忘れてるんじゃないの?
一言も発することなく、自分自身を省みる時間をくれた猫。
ねえ、あなたもしかして神さまなんじゃないの?なんてことをちょっと考えたけれど、粗相のにおいで我に返った。

(余談だが、ニットは断捨離することに決めた。)

読みやすい文章の書き方をハリウッドに学ぶ。

最近、文章を褒めていただくことが増えた。
しかし、私の文章が読みやすいのだとしたら、それは私に才能があるからではない。ただのスキルだ。つまり、誰にでも書ける。

ブログを書くときは、大学時代に叩き込まれたアメリカ式の論文の書き方、「国東探訪」(参考:国東探訪について)を作るときは、ハリウッド式の脚本術をベースにしている。
特に「国東探訪」は、読んでいて楽しいものにしたいので、物語的な起承転結を意識している。

私の教科書はこちら。(現在は売っていないようですが、似たような本がいろいろ出ています。たぶん基本はどれも同じ。)

合理的なアメリカらしく、ハリウッドでは脚本の書き方もマニュアル化されているらしい。これを知っていると、文章に限らず、人前でまとまった内容を話さなければいけないときにも使える。また、映画を鑑賞するときに、ストーリー構成という視点から見るのも楽しい。

ここでは、いろいろと便利なハリウッド式の脚本術を、大まかに3つのステップに分けてご紹介したい。

1.素材を集める

文章を書く作業は、実際に書き始める前からすでに始まっている。

人の興味を引く素材をどれだけ集められるかは、面白い文章の大切な構成要素のひとつだ。どれだけドラマティックな構成にしても、書いてある内容がものすごく普通(もしくはありがち)であれば、ドラマティックにはならない。とはいえ、変わったネタやエピソードである必要はない。「自分独自の視点」というのは十分に面白さだろう。

物語を書くならば、まずはキャラクターの設定や具体的なエピソードをたくさん作る。「国東探訪」であれば、資料やデータ、写真などを集める。
文章として形になる分の、少なくとも倍は集めたい。

集めた素材は、整理整頓しておくと後が楽だ。
PCでの作業なら、検索しやすいファイル名をつけたり、同じフォルダにまとめる。アナログ派ならば、ふせんに書き出しておく。
私はふせんを愛用している。全体を見渡すのが簡単だし、次の作業で並べ替えるのにも便利だからだ。

2.並べる

次に、集めた素材を並べ替える。
基本的には、「起」「承」「転」「結」で全体量を4分割する。
1時間の講演原稿であれば15分ずつだし、1000字の文章なら250字が目安だ。(もちろんぴったりである必要はない。あくまで目安だ。)

一度、ハリウッドの脚本の話に戻ろう。
2時間程度の映画を一本思い浮かべてほしい。

 1:0分〜 物語の背景の紹介
   (場所、年代、登場人物、世界の前提など)
 2:30分 何かが起こって物語が動き始める
 3:1時間 「転」それまでの常識がひっくり返る
 4:1時間半 最後の戦い・クライマックスのはじまり
   エンディング

改めて映画を見ると、実に多くの映画がこんな構成になっている。
スター・ウォーズのエピソード4でいうと、

 1:姫、ドロイド、ダース・ベイダー、ルーク、オビ=ワン登場
 2:30分 姫のメッセージを見る→旅立ちへ
 3:1時間 デス・スターに出会う→これ倒せるの…?
 4:1時間半 オビ=ワンが死ぬ→破壊ミッションへ
   勝利

こんなふうに物語が動いている。
ちなみに、旧三部作(エピソード4〜6)の真ん中では、敵だと思っていたあの人の重大な秘密が明らかになるし(見てない人にも見て欲しいのであえて伏せます。)、新旧三部作(エピソード1〜6)の真ん中では、アナキンが暗黒面に落ちてしまう。(この視点で見ると、新旧三部作の主人公は完全にアナキンだなあと思う。)
ジョージ・ルーカスは、神話の構成を熱心に学んでエピソード4の脚本を書き上げたことで有名だが、物語全体も入れ子構造になっているのがわかる。

「起」「承」「転」「結」の中でも、特に真ん中の「転」はとても大事だ。
もう少し例を挙げてみよう。「転」では、こんなことが起きたりする。

 ・殺人事件の犯人だと思われていた人物が、真犯人によって殺される
 ・敵を本気で倒しに行ったら、予想外の反撃を食らって逆に大ダメージ
 ・味方のひとりが、実は黒幕だった

今までAに向かってすべてが進んでいたのに、Aが成立しないということが明らかになる。それによって、強制的に方向転換を迫られるタイミングなのだ。(伝わるだろうか。)
これによって、盛り上がりが生まれ、リズムができる。

国東探訪では、「この神社はこんな謂れがある。〜(ここで関連資料の紹介など)〜しかし、それだけでは説明のつかないことがある」というように、真ん中くらいに、それまでの話をひっくり返すような謎をはさみこむようにしている。
「転」から作っているといっても過言ではない。

3.捨てる

最初に素材を集めることが大切だと言ったが、それと同じくらい、集めた素材を捨てることが大切だ。
どんなに気に入っているエピソードであっても、物語の軸がぼやけるものは捨てる。捨てきれなくて、主人公の性格や動機がぼやけてしまったり、物語が混乱したりしてしまう映画もよくある。

わかりやすくするためには、仕方ないのだ。
涙を呑んで捨てよう。

国東探訪では、本文に盛り込めなかった面白い話を、写真のキャプションとしてなるべくリサイクルしている。

最後に

以上、3ステップを紹介した。

「ハリウッド式」と大胆に銘打ったが、私自身はそれほど厳密に運用しているわけではない。改めて国東探訪を読み直したら、全く乗っ取っていない可能性もあるなと思いつつこの記事を書いている。書き始めるときは常にこの構成どおりに組み立てるのだが、国東探訪は4000字程度なので、そんなに盛り上げなくても読み進めてもらいやすい。そういう場合は、最終稿にたどり着く前に構成自体を捨ててしまう。
機械的に構成を立てられるのはとても楽だし、何よりも実際に「わかりやすい」「内容の割にさらっと読める」とお褒めの言葉をいただいている。さすがハリウッド。

何かの折に役立ててもらえれば幸いである。