クラウドファンディングで得られたものが大きすぎて驚いた。

クラウドファンディングのプロジェクトを立ててみた。

国東愛が高じすぎて、自腹で印刷してただで配布するという、ドMフリーペーパー「国東探訪」を作っている。(「国東探訪」について
しかし「これではやっていけない」とようやく気づき、悩んだ末、2017年度はクラウドファンディングで印刷費を支援してもらえないだろうかと考えてプロジェクトを立てるに至った。


結果。

なんと、プロジェクト開始3日で成立した。(ありがとうございます!!!)

達成後も支援してくださる方がいて、予想外に増刷までできることになった。今までは200部しか印刷していなかったので、なるべく節約しながら配っていたが、現在の支援額から逆算すると500部刷れる。
2.5倍である。
まるで夢のようだ。(ありがとうございます!!!!!)


葛藤。

さあプロジェクトを公開しよう!という瞬間、「クラウドファンディングをしないほうがいい理由」がまるで走馬灯のように頭を駆け巡った。
「100万円レベルのプロジェクトが並ぶ中、6万8千円ってどうなの」にはじまり、「集まるわけないよ」「それくらい自分で出せばいいじゃん」「甘えてるんじゃないの?」と心の声に罵倒された。

今思うと、私は恥ずかしかったし、怖かったのだ。

クラウドファンディングというのは、要するに「私は(金銭的な意味で)困っているので、誰か助けてください」と求めることだ。
他のプロジェクトを見ていると、地域を盛り上げたいとか、新しい場所を創りたいとか、どれもきらきらと輝いて見える。
一方の私はといえば、事業規模の小ささもさることながら、新規事業ですらない。「ノープランではじめたら困ってしまったので、助けてください」と言っているに等しい。図々しいにも程がある。

私は基本的に見栄っ張りなので、きちんとしていると思われたい。
「やめておこうかな」と一瞬考えた。


恐怖の先へ進む。

私が「これはやりたくないな」と思うときには2種類ある。
ひとつは、身体の奥底から警鐘が響いてくるとき。
理屈の上ではどんなに素晴らしいプランであっても、「なんとなくこれはやばい」と感じることがある。そしてその勘は大抵当たる。
もうひとつは、「怖い」と感じるときである。

人間は、未知のものに対して恐怖を覚える生き物だそうだ。
「怖い」と感じるときは、既知の領域から踏み出そうとしているとき。
だから「わー、なんかよくわかんないけどどうしよう!」みたいなときは、とりあえず進むようにしている。

「やめておこうか」と頭に浮かんだとき、同時に「あ、私は怖がってるな」と感じた。
怖いなら、行くしかない。
不安をはじめとするすべての後ろ向きな気持ちを一瞬だけ封印して、プロジェクトを公開した。

結論から言えば、進んで正解だった。


クラウドファンディングで私が得たもの。

クラウドファンディングは資金を集めるための方法だが、得られたのは金銭的な支援だけではない。
「じゃあ、それはなんなのか?」と聞かれると、自分の中でもまだまとまっていない。

強いて言うなら、「生きていてもいいんだよ」と自分の存在を肯定されたときの感覚に似ている気がする。(ということは、ただの承認欲求かもしれない。)

今思えば、私にとって「国東探訪」というのは、完全に閉じた世界だった。
「面白かった」とか「楽しみにしてる」と声をかけてもらうことはあったけれども、頭では理解していても心には届いていなくて、常に「私の、私による、私のためのフリーペーパー」だったように思う。

今回、本当に、いろいろな立場の人がいろいろな理由で支援をしてくれたことに、それはもう本当に驚いていて、なんというか、海外ドラマで棺桶に入れられたまま墓地に埋められてしまって一生懸命外に向けて叫んでいたら助けが来てくれて「あ、私の声をちゃんと聞いてくれた人がいたんだ」みたいな、そんな気持ちです。(これを読んだ人にどう伝わるのか想像しきれてないですが、私の心が驚きと感謝と生きる歓びに満ち溢れています。)
何だかわからないなりに、とてもとても大切なことに気がつくことができたという確信があるのだけれど、それがなんなのかはこれから見えてくるのかもしれない。


古代ロマンと謎があふれる国東半島のフリーペーパー「国東探訪」を継続したい